折角なので

bobbinsmall2010-01-05

青い帽子のパタンと同じものを、カラフルな糸で編んでみる。
出先のショッピングモールで、固い羊毛で編んであるアランのマフラーが11000円の半額で5500円という値段設定におののき、更に某セレクトショップで紙カバンに極太の毛糸2つと太い編み針が入って14000円のキットが置いてあるのを見て、大変びっくりする。値段設定はともかくとしても、不況だと家で編みものは割にあっているのでせっせと編まないと。

茂木さんが今さらラカンについて回答しており、相変わらず個々の学者や芸術家のバックグラウンドについての把握が大雑把な事と、この回答を2年半出さなかったという事に愕然とする(ウィリアム?ジェイムスが「意識の流れ」を問題にするとき、言語以外のものも問われているとして、どんな風に? それが数学とか位相空間の解析とどう絡むか全く分からない。手元にジェイムスの本を保管しなくなってしまったが、このあたり何か決定的にはしょられている気がする)。
文脈なんて大事じゃなければそういう読み方もありなのかも知れないが、アンタの感情の昂りと神経のバーストだけが全てなんだ。そこに変な組織が絡んでるんじゃないの。
第一アインシュタイン自体、科学的にどうしたという内実を問うより、アンタの自己イメージがそれに貼り付いているだけで、それとセットで売り出したものの、メディアもその虚像を持たせきれなくなったんじゃないの(虚像と連動して動かない主観性というのはラカン的だ)。
等々考える。考えるだけでなく、今年は出来るだけまとまりのある文章にしていかないと。ついでに手近においといたチャーマーズをちらちら見ながら、どう考えてもクオリアの問題提起自体、50年代以降のポップカルチャーとか、ニューエイジみたいなものからも影響を受けているなぁと思う(エピグラフの感じがアヴァンポップみたい。繰り返し書いているが、ポップカルチャーも神経工学とかロボトミーみたいなものからも影響を受けており、外国で精神世界の事を考えるとそういうものが伏流しているというのは充分あり得ることなのじゃないだろうか。それをもっぱら解剖学の問題系に抱え込んで訳の解らない技術を濫用しているところに、日本で感覚質の問題をさわった学者の悪辣さがある。それが晩年の仕事だとすれば、やっぱり晩節を汚す仕事が後続の人間には相応しいのだ)。