いつになったら事態は正されるのか?(メモ)

 「いつになったら事態は正されるのか? そこには、この家には、よくないことがあると親に言わなくては。これらの線のところで、この家系のなかで、事態が放置されたままになっている、よくないままにされている。それがよくないと、それが、この家の多くのほかのこと同様よくないと、親たちは知らなくては。」
 邪魔立てされた欲望の緊張、繰り返された挫折の無意識、愛の中断。これこそは、要するに事故となった法である。事故の法であるにおとらず法の事故でもある。この二重の法、おのれ自身の上に捻じ曲がったこの法は、まずい時に来た=不具合な角のように、あれら菱形の辺におのれを書き込みに来たのである。(一人の盲者に関する複数の手紙=文字」ジャック・デリダ

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 その方もその方の家族も、その方の主義主張も国も、法外な力(アレイスター・クロウリーの魔術みたいに薄っぺらな印象もある)に迷わされる必要が(本来は)ないのだが、そういう風に時間を費やされていることの恐ろしさ。もっと怖いのは、誰もそれを(それとして)撮ろうとさえしないし、映画なんてどうでもいいとしか思っていなさそうなことだ(どうでもいいかどっちでもいいような内輪話だけで。映画を撮りながらこの人たちは、タームをWikipediaで調べる)。