というより、単なる色々な種類の植物の集合を、そういうものとして眺めているということ。
      ♪
予め内在して定立しているような考え方の、単に広範かつ無意味な焼直しにすぎないような事。それに心理的素材を重ねる事に意味を見いださない。

天気がよい為、考えごとをしつつ大変に楽であり、なおかつ育て始めると色々な植物が見えてくるという気に。

木の芽どきの揺らぎの美しさ。思わず寛容になり「ソルボンヌに送ってくれるときは、一旦空中で分解してもいいですよ!」と伝えたくなる。

か、どうかわかんないが判断能力を問われる時期に、米軍がesp使える兵士を開発中とかいうニュースを読み、なんかウィトゲンシュタインの時代には外部からモニタリング出来ないとみなされてた脳過程を物理的に取り出すって絶対妄想のはずがないと思う。その上でオーソライズする奴があまりにもおぞましく、誰もテレビを通じてウィトゲンシュタインに興味を持つような事が起きなかったのも、その科学者の力量不足の現れなんじゃないかという気に。
     ♪
シンクロニシティの気持ち悪さ、とは別に、単に内田樹先生がコミューンについて触れているため、コミューン的な
ものに対する違和について注釈する。起源論としてカトリックの教区があるとして、教会員でもなければ今後もたぶん
教会に通うことはない私がそういうことを書いていいか解らないのだが、恐らくカトリックの教区はボリューム(構成人員)の過多で教えることの内容があんまり大幅に違ったりするものじゃなく(ローマ教皇が偉いのではなかったか)、教区を移動しても内的に作用してる信仰の内容物
が180度違っており困惑する、ということがないような気がするのだ(これはプロテスタントでもたぶんそうで、聖書読んで
詩句なり一節を引いて解釈する、という単純素朴なことしか、オーソドックスな教会ではしてない気がする)。
 問題なのはそういうコミューン(というよりコミュニティ)でなく、どちらかというとヒッピーコミューンとかカルト化した教理で縛られた共同体のようなものなのだ。「心臓を貫かれて」に出てくるのは異端宗派のそういったコミューンだし、「1Q84」に出てくるのも
特定の新興宗教の共同的精神にスポイルされた人々であり、そういう人って潜在的には結構いるのではないか、と想像する。
(ある時期の身近な大人のバイアスで、個人がその人なりの心理的構成を切り出せないような共同生活を強いられてスポイルされてしまった、というタイプの人が)。

90年代以降ポストモダンだの何だのいう状況の後を引き取るためにそういう求心的かつ不明確なカルトが並立するようになり、そういうものはメンバーだのフォロワーの増大を気にかけるために見てきたような嘘をつくような気がする。(
そこにあるのは縦割り行政なんて目じゃないくらい理不尽でプレッシャーのかかる、凝縮したエネルギーであり、村上春樹さんのいい小説はそのクリアランスをか弱い一個人がどう取るか、もしくは取れずに憎悪を募らせるかを巡って書かれているように私には思えるのだが。