今日の園芸・柳田学と調整

を、途中からゆっくり見る。挿し木について驚愕の事実が。(葉を一枚置いて置くと脇芽から増える事の面白さ)。綿を頒ける事も決まり、ごくそれらしい夏休み。よかったと思う。

単に園芸番組を見ている限り十年一日の感じしかしないが。
それまでは、確かに民俗学が幾つかの国の間のリアリティーを調整しており、国間の媒介物がむき出しの欲かその反動の作為だけではなかった、といえる感覚と、それがだんだん機能不全になっていく過程というのはあるのだろうという気がする。柳田学について(それを何かの連続性として取り出せればとても面白い、例えば単に園芸番組を見ているときの起源的な説話として)。
どこかで、それで感覚の整合性をとれば媒介間のわるい増幅を食い止められるものとして、民俗学を置いているのが
民俗学者であり、同時にアクテヴィストでもあるという気がしてる(ミシェル・レリスもそうだが)そうでなければ
そもそも民俗学自体成り立たないのかもしれない。
      ♪
自転車にこそ乗れなかったが、小さい乗り物を見てあらやっぱりかわいいねと思う。