日中の

天気がよいせいか心理的にのびのびする気持ちに。
何の含みも無い心理的な開放感。と共に暫くしたら
バルトの全集を買おうと。歩行補助でない杖、形態と
用途という考えに惹かれる。(歩行補助でない杖であると
同時に栞として機能するもの)
gooのトップページが若冲のデザインに変えられるらしく、
そんなの変えるに決まってるじゃんと思い変更して暫く
白い象を眺めていたが、同じ鳥獣花木図の灰色の象も
何考えてるか全く解らずいいのだった。前歯が可愛い。
モダナイズの不まともさを弾劾し若冲を称揚したので
取り敢えず全然まともだ、分裂病の筈が無いだろうなと
思う。「美術家」の図々しさというかよく描くよなと
いう下らなさにうんざり。お蕎麦食べた後しっかりめに鳥居をくぐって柏手を打つという厄払いをする(神道式のちゃんとした参拝方法を知らないが、とりあえず自分に関わる人とか肉親に自分を通して訳の分からない障気が回らないようにというのと、平和で気分のいい世界がもたらされて長続きしますようにというような事を。災害や事故で傷ついた人は早く回復しますようにというのも)。

胃に負担が全くかからなくていいなぁと思うのとほんっと訳の分からない料理をウダウダウダウダ、、、とか凄い不気味。改めてジャムの件で虫酸が走る(ジャムのメーカーさんは凄くちゃんとしたもの作っていると思うのだが)。80年代に病気の巣みたいのあるなと思う。
♪ ♪
そんなの撮っても仕方ないのにもり蕎麦とかざる蕎麦撮っちゃうのは何故

こういう天気だとほんと美味しい。

久し振りに「零度のエクリチュール」も読みたくなる。つくづくある文体とそのリアリティがある場所に対して妙な僭越というか越権する事の意味のなさを。その越権により運転が出来ないとか、まともにこなせないのに日常の些事を凄く下に見るような感覚を信用しない。当たり前の事なんだが生活実感を一旦もの凄くマイナスのところから再給付するみたいな態度を軽蔑するのだが、なんか「ていねいな生活」みたいな言い草はそういう事だけ志向してそうに思う(生きてく事は機能不全家庭の家の子供のリハビリじゃないので、ひたすらそういう側面を強調する80年代臭い感じに気分悪さしか覚えない)。とにかく虫酸が走るばかり。そういうのがゴミを再生産するような体制には出来るだけ加担したくない。
「ほぼ日」を見てるとつくづく機能不全家庭の馬鹿ガキがそのまま60代になったようなパーソナリティー異常者だなと思う。

バルトやベンヤミンと比べたら脳科学はゴミで尚且つ専横しており、何の申し合わせで文学が引導を渡してるのか想像もつかない。

エンストという事態に通りすがりの方が助けてくれようとし、全くほのめかされたり不自然なコミュニケーションなんかないのでつくづくまともだと思うのだが、一層不まともで調子悪いカルトに対するなんなの感が物凄い。単純にかかわり合いにならなければならない分だけ色んな事がそつなく進みそうに思うのだが。