影響の不安?/遺伝子と電子工学だけを残したままの・・・

 全然フェミニスムの感性と重ならない批評家として、
H・ブルームというひとに興味を持っていた(これは、
ルネ・ジラールに関心があったのと似たような感覚で。
主体の位置を画定するのに暴力の所在を示す、というの
は、90年代の半ばごろからすごくありふれた
景色だったので、そういう側面から関心をもったのかも
しれない)。

 「影響の不安」を読みたいと思っているときはまだ邦訳
がなく、邦訳が出た時には、色々と不安な影響の渦中にあ
って、まだ読めていない。

 不安な影響。
 例えばある神性に影響されたかのように振る舞って、「お
父様 世界と宇宙と私たち 霊との結びつき 歓喜」をキー
ワードにした詩を書く、ということは出来る。けれど大抵の
場合そうしないのは、私的な言葉にまつわるたしなみが
それなりにあり得るものとして残されているからで、大抵
の〈詩〉は、まだそうやって個人の中に組成されている。
(表に出すのは野蛮なことかもしれないけれど、ナチス台頭
よりひどいことが起きていないとすれば、詩として書き残さない
ほうが野蛮なように思える)
 たしなみを抜き取ったところに、「お父様 世界と宇宙と私たち
 霊との結びつき 歓喜」みたいなものはあるし、結局のところ誰で
も見舞われうる不安な影響は、そういうものにアクセスしなくても、それ
が自分の在るディメンションを塗りつぶしにかかる、という感覚の裡に
兆している。

 先行するテクストからくる影響を私の意識が受けるのではなく、自己意識
なり私性の基底面にあるテクスト(ここには勿論遺伝子情報も入る)からの
影響が外界に流出したり、搾取/模倣される可能性について、そろそろ大真
面目に考えてもいいのではないか、という気がする。
 そうでないと実際に起きつつあることと、書かれる言葉の帳尻が合わなく
なる。
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