方法

 「今日のヴィジョンと印象」。
 「今日のヴィジョンと印象」はイマジネーションの
記録であって、作品としては結実していない。
構想はきちんと作品むけに用意したノートのなかで
組み立てること。そしてその間に、「ヴィジョン」から
の引用にふさわしい描写をかぶせたものを散りばめること。
そして次からは「ヴィジョン」をもう少し厳密な観察
の書にすること。「どこで誰がどう喋ったか」を書き留め
ること。
 そしてうまれたヴィジョンのあとに、それがどのような
作品世界になら属す事が出来るか考え、みじかい注釈を付
すこと。(この注釈は、現象学的還元にならって〈〉の中
に入れる)。例えば何かがわたしと同一化しているとき
に見た幻には、〈同一化の視点〉というラベルを付す。
そのことによって作品の分類をしやすくすること。
 とりわけユング的なアクティウ゛・イマジネーションの
濫用を避けるために、良質な批評的ことばを大切にすること。
例えば「差異としての場所がひとを疑わせる」(柄谷行人
グノーシス主義こそ、いま知られている「近代」の最初の
起源だったのだ」(H・ブルーム)。
とくに二番目の言葉が語っているように、神秘主義
は「アニマ/アニムス」のものなどではないし、人間がこのような姿で発
生した以上、「反宇宙」のねがいが聞き届けられれば、それが
幸せであるというわけではない。
絶対にない。問題はデミウルゴスが一体何であるかという
ことなのだ。
 決してアニマ/アニムスとの同一化など求めないこと。女性という性、
男性という性の裏面に出ること。そしてそれぞれの喜
ばしさを掴み、書き出すこと。

 ”能動的創造法”があるなら、”能動的理性化”とでも呼
べるものも、同じく存在すべき。
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 2000年代初めの発想で、多分神なり神秘主義というものが
「いいように使われる」だけのものでしかないということを、そ
れなりに懸命に考えようとしていた(アドルノはその時に、感じ
取りきれなかったのだ)。
けれど神秘主義というのは、その有為性でもって一心に人間
をすり潰すことを善とするかもしれないし、その中に在ると
きには無為の意識として使われていることしか、自分の外郭
を決めないのかもしれない。

 そういうことがらと、そんな事に見向きもしないような日
常性が注意深く両立されている面があれば、それは小説に似
てるかもしれない。けれどそんな出来事は、いつも現実に先
取りされている。
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 例えば上位化された「意識の素材」というものは確かにあるんだろうし、
それを(弁証法的な手続きを経ず)上位化した事に対する嫌悪感というのも
やっぱり意識の中にあるんだろう、と思う。ただ、そんなに簡単に、弁証を
手放して他人の感得したことが、全部自分の創造的要素として引き当てられる
ような時空を、私は思い浮かべていない。
 要するに「霊感がない」のだと思う。
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(この項続く)