近代化する視覚(メモ)

 人体の神経は、適切にも電信線に喩えられてきた。電信線は電流
だけを伝導し、他のものはいっさい通さない。電流には強弱があり、
どちらの方向にも流れ得るが、その他の質の違いは全くない。にも
かかわらず、端末にある装置の違いに応じて、電報を送ることも、
ベルを鳴らす事も、鉱山を爆発させることも、水を分解することも、
磁石を動かすことも、鉄を磁化することも、光を
発生させることも出来る。同じことが我々の神経についても言える。
神経において生じる興奮の状態や、神経によって伝達される興奮の
状態は、どこでも同じなのである。

 ヘルムホルツが明言しているのは感覚の分化ではなく、経験の源が
何であろうと、他のメディアや機械と多様に接続される身体の能力が
何に由来しようと、身体にとっては問題ではないということである。
知覚するものは、特性を持たない導管、一種の
中継地点となって、循環と交換を最適条件に調整するのである。そこで
循環し交換されるものは、商品であっても、エネルギーであっても、資
本であっても、映像であっても何ら構わない(ジョナサン・クレーリー
「近代化する視覚」)
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 ある思考を、単に主体に内在する情報状態として視ること。むしろ中継地点として
使うこと。これは、リアルな問題でしかないのに、そういう考え方を阻んでいるもの
があり、〈開かれていない〉ことによって神秘化しやすいという事態を、言い当てる
ことにはスリルがある。
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 突然W・スタイロンを読みたいなぁという気持ちになる。
 闇とか病、土地に準拠したものを書く時に、サーガの形式ではなく
単に自分の視覚と世界の視覚が倦んでいるように書けないか、と思う
ことがある。単なる空想的な形式の裏面でいま進行していること。
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 単なる空想的な形式に孕まれているポジティヴさ。

水の中に長くキリムが渡してある、そう思ってずっと眺めていたら
キリムの模様の水だったようで、どう手を横切らせても、模様が消えさらない。
たまにそんな経験をすることがある。私はとても嬉しかった。
 満月だ。キリムの中の草原には新しい馬が一匹居て、走り出そうとしているのだが
水の半ばで凍り付いている。光が馬のたてがみにまんべんなく落ちている。それが全
部水の中にある。キリム、水に溶かそうとした人は草原に落ちる光線に似ている。き
っと同じ物質で出来ている。織られている時間は奥行きと、それ以外の呟きのような
もので満ちている。
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 何が「ファシズムでない」ものとして思い浮かべられているのか、転移の基盤に
なるセンシュアリティの排除なのか、単なる空間的なものの快適な展開なのか。