意識についての論文を一個だけ書いたことがある。

 思い出すのは(今も辛いことなのだけれども)、資料を
集めるのに凄く時間がかかったことだ。幾つか言い方を
考えていた。一つはカジュアルな意識変容で人は救われるか
みたいな話。もう一つは詩の垂直性が、あるとするとそれが立脚
する場所は何なのかみたいな話(この時にアドルノのプリズメンを
読んでいたのだけれど、当時の私にはさっぱり何が書いてあるか
解らなかった)。もう一つは帝というものの無根拠さについて。
もう一つは毎日習慣化する書き物の中に在る、印象の束としての
芸術。その基盤が、自己だけでなくこの世界に他人が居るという
ことの亀裂をあらかじめ含んでいると言うこと。

 これくらい考えて、「意識」の基本文献を決めたあたりで、
私は、ずっと続くのだろう、と感じていた。他にバランスよく
しなければならない勉強があったにも関わらず、それどころでは
なかった。

 とりわけかかり切りになっていた何ヶ月か、怖いくらいに私は、
この世界に物理的に割り切れることがない、ということを感じていた。
ジャコメッティの彫刻を見ていると、アクチュアルなサイズに対する
切実なこだわりが人の身体を解体すると、アフリカの魔術の置物や何かの
フェッティッシュにしか似てこないことを感じて、痛いような陶然とする
ような気がするけれど、そういうことがもし、人と人の間に起きたらどうなる
だろう。

 当然のことだが、文学は言語野というものの中で、常にその解体と再構築が
行われることを想定してきた。けれどそれが脳とどう結びついているか、社会態の
中でどう生きられるかということについて、ある見解が特権的に採用されすぎるのだ。
私はそこに、自分の意識はない、と感じる。けれど時代と言う名前の表象はそれを赦
さないかもしれない。そのとき意識なき表象と私の意識の間には、先のジャコメッティ
の彫刻作成に似た往還が起こる。それは、転移とは違う。魔術でもない。
 魔術とは違うものであるべきなのだ。そう感じる瞬間に、多分物理的法則や微積分に
暗い人間でも、それに替わる肌理のあるチャートを経験域に引き当てている。