差異と反復

一昨日出先で文庫の「差異と反復」を購入したとき、「生きててよかった」と感じた。居てよかったというか。初めて手に取った時、もうドゥルーズは亡くなった後で(そもそも自死オウム事件がきっかけで読み始めたんだった)なんか、死んじゃうんだ(しかも自分の生きてる時間とすれ違いで)と感じたのを思い出す。
(私は自殺が理解出来ないたちで、90年代の言葉上殺伐として死にたがりのムードを今でもはっきりおぞましいものとして思い出す。けれどそれは死の欲動について考えるためには一つの素材だったような気がする)
生きててよかった、というのは、本当に濃密な実感で、ある瞬間になんの傾向もなく(言葉も伴わない)そういう感情になるのは仕方のないことだ(というか、そうじゃなければ現実がこういう様相じゃなくなってるような気がする)けれど世界にはそういう感覚を合一的なものとして扱う手付きがあって、関わると何だか違和とか齟齬が入り込んでくる気がする。
無視すればいいと頭では解っていても、そういう合一性を巡る反復(強迫)が外から導入されるとき、どうすればよいのだろうなと思う。(私が社会学を謗るのは、だから何年同じような事を言えば気が済むのだろうと感じるからだし、無理やり暴力に晒された人も消えないのが社会の気がする)
書きながらつくづく、自分が肌理のない手口(監視社会とか自己言及とか強すぎる転移感情とか)をウィルスみたいに毛嫌いしてて、かつそれに対して弱い部分があるなと思う。

白檀の文字香のようなもの。それはよい匂いのする粉を練りあわせてかたち作られており、火を入れても入れなくても匂いがたつ(火を内にこもらせる時はわずかに枯草の匂い、大気にとりまかれてただある時は、苛立たせ、少しずつ削り取られたどこかの氷の匂い)。