ピユス?セルヴィアンは正当にも二つの言語を区別した。一つは諸科学の言語であって、等号に支配され、どの項も他の項によって代理されうるものである。他は、叙情的な言語であって、どの項も代理されえず、ただ反復されることしか可能でないものである。なるほど、反復を、極限的な類似ないしは完全な等価として「表象=再現前化」することはできる。しかし、二つの事物のあいだの本性上の差異は、ひとが一方の事物から他方の事物へ徐々に〔度を経て〕移行することがあっても、なくなりはしないのである。(「差異と反復」)
時々現実にそのまま激突せずに済むように、詩や幻想に属するものを時空を賭けて思い起こすことがある。それはすごく普遍的なことで、なおかつ他の意識を物理的、かつ即物的に捕食する事によって保証されているアクションではない。
思い起こされる詩の数は世界に置かれた詩の数と多分同数で、それをよく感じるために何回か読むことは最初から諸科学とそれにまつわる幻想的な行為遂行とは別の動機で動いているような気がする。表象=再現前化のみを目的とした言述とも。
けれどこれらを切断するのにエズラ?パウンドみたいな方法をとることは出来ない。