年末の読書のために

 「差異と反復」のなかにある、幼生が社会態のなかで生きられることの難しさ
と、神学による自我構成のひび割れを、ベンヤミンと結びつけて読むと(自分なり
に)分かりやすい気がする。そういった感触を(ベンヤミンに限らないが)小説
や詩として構成する、自分はその途上にあるだけなのだなと感じることがある。
(下記の文章を書いた時にはまだ、ベンヤミンを知らなかったが)。

 そういう感情があるからこそ、本であるものにおいそれと転移出来ないなぁと
思っていて、私はある都市論の著者の方に敬意を抱いているが、精確に
読めるまで言及してはいけないなぁと思っている。これは7月にフランスの
哲学者の方の講演を聴きにいったときも感じたことだけれど、もう一度
緊張感を持って本を読めるようになりたい(昨年末、本を読
んでいる、という実感を頂いた。今年はamazonで購入せず、本屋さんで著作を
購入させて頂こうと思っています)。

 それから今になってアドルノの「フッサール現象学における物的ノエマ的なものの
超越」を購入する。時間のあるときに読むのが楽しみ。時間がないとき(出来るだけ
余計な時間なんてないように)私は自分が真っ当にやっていけるようにしたい。

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 五月ごろ、休日に立原道造の記念館に遊びに行った。すごく古い
記憶。11くらいの時に出先で見た立原道造パステル画は、物と
生き物の中間のような魚を題材にしていて、なんだかちびまる子ちゃん
に出てくる魚の絵みたいで、見てからしばらく笑っていた。

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 名の知れた方に言及しないのは、単に本を読む以外に下心みたいな
ものが働くと文章がくっきりしないからなのだが(私は有名人だから転移したいとかそういうのがダメ)、K.Mさんのダメ
なところをしっかり批評したい(というか、ここで批評する)。

 大文字のメディアを使って、世界があらかじめダメなものといいものを画然と分けている、
みたいな雰囲気を造りだすのは簡単な事なのだが、そうじゃないから世の中が流動している
ということは、別段脳科学の専門家じゃなくても感じ取っている事だと思う。
 私は今年の前半、K.Mさんのブログを呆然として読んでいたことがあって(はてなダイアリー
を虹のデザインに変えてからの言及もそうなのだが、本当によく、私の書いていることとその人の書いていることがかぶるので)、それからここ2ヶ月ほどは読むのをやめていたのだが、
この人は本当に、つまらない対立項を造りだして人にいやな気分を味あわせるのが好きなんだな、
と感じる。ワグネリアンだからなのかどうかは解らないのだけれども。
 ワーグナーよりラヴェルとかクープランが好きな人とか、この世界には色々いて、それが多様性
って事じゃないの、と思うのだけれど、瞬時に気分が高揚して「これが感覚だ!」ってなっている
時のこのタイプの人は、本当に聴く耳もたない。そういう人は、ほんとは人の感覚に肉薄するのに
もっとも向いていないタイプの気がする。
 心底、来年はこの人からの意味不明な圧迫から逃れられるとよいな、と思う(私は意識についての
小さな論文を書いたけれど、それは多分、都度超越的なマトリクスとか、単に幼生を永らえさせるような
装置を呼び出すことから離れたかったからで、それが出来るとき師とか先生っているんだなぁ、と感じる)。