夢と感覚

ちょっと前の日記に夢と現象、感覚質の事を書いたら評判がよく(?)別に聞いてもいないのに夢について書いてる人が沢山いたので、ちょっと作品篇を書いてみる。
「それは見すぎた夢の悲哀、長く見すぎた夢の、細く開いた隙間から流れる息の流れ。風の吹く3月、寒い地面、射す頼りない日光のなか、それでも私は幸せだった。長いコートを着て家を出た、止まらない電車を幾本かやり過ごして駅にいた。私は鳩を数える。駅のベンチで音楽をきく。きこえてくるそれは時の表面がさざ波立つような美しい、みどりの音楽なのだ。私にしか聞き取れないかぼそい声で私が歌うための、2つの楽器で奏でられる旋律、しかし私は歌わず、そうして全てのものが輝いて、私はあくびをする。眠い電車が眠い街を抜け、眠い駅に滑り込んでくる。そのとき屋根には眠りの鳩をいっぱいにたたえて、恐れるものはなにもない。私は電車に乗り込んで、ロリ
ガンを追ってゆく。入れ替えられた緋色の目玉をもって。彼女のために小さなレースのケープを編んで。電車が走る街はずれの野原、野生のシクラメンが遺跡に寄り添って咲き、花弁が震えている。それを小さな女の子が摘みとっては口にくわえる。遺跡のあいだを風が吹く、冷たい風を女の子と塔に登った男の子が見張っている。塔は崩れ落ちそうで砂粒が舞う。風化した塔のかけらが電車に入りこむ、遺跡の灰が床に吹き付け、それはここらでは名物だ。電車は走る、三つ目の駅を目指して。三つ目の駅に居る、ロリガンの目はまだ洞だ」。
これはたぶん15くらいの時に夢を夢らしい音を伴った文体で書こうと思い習作したもの。ロリガンという名前の香水があるのだが(ウビガンではない)、ここでは人形のかたちのフェティッシュ(というところが十代な感じ)。
この頃からずーっとそうなのだけれど現実と意識し得るものの違いはどこなのかと思っていた。(それから私はシクラメンが群生しているところを思い浮かべるのが好きだった)

年末だなぁと思うのだけど、少ししたら感覚についてだけ限定して日記を再開したい(私の日記は本当に読んだ本の感想と遊びに行った場所についてと、詩的照合と、そんなことばっかり書いてあった。)