ラカン

現実と言語の把握について。
( 以下に書くことは思いつきも多い)
薔薇 白い薔薇 白い薔薇が花瓶に入っている 白い薔薇が黒い陶器の花瓶に入っている
白い薔薇がユーカリの葉と一緒に黒い陶器の花瓶に入っている、、、
と、延々あるものについての要素を増やしたり、属性を書き出したときに、言葉で把握した状態が見え方にどう影響してるかという事まで、普通は意識しない。
意識しないで済むように造られているのが人の思考とか見当識というものだとすれば、別段「黒い花瓶に入った白い薔薇と丸い葉の連なるユーカリ」について、きれいだと思う理由とかメランコリックだとか思う理由なんていちいち考えなくてよい訳で、それを逐一(現象学なら現象学の達成点に言及しないで)最初から考え直そうとするのなんて、下手の考え休むに似たり、みたいなもののような気がする。
そういう人は結構多いのかも知れないけど(私もそうなのかも)、見当識外の出来事に妙な関心を持ち続ける事でまともな現実のスケール感が圧迫されてしまっている人というのは居て、独特の癖がある。その癖が妙にセンシュアルで気持ち悪い場合、そのキモさは別に哲学的粉飾を伴うようなものでなく、単に嫌なもの、えげつなくて寸足らずな感じでしかないのだと思う。
表現するのはとても難しい。
普通に会話していて聞く言葉ではないけど、「陳腐だ」と感じるしかないような出来事や現象がある。例えば、人の意識の組成は科学的に割りきれる、という考えは陳腐だし、愚直にそれを追求して当の意識(自明性)に届かない部分を美的賞揚で埋めるのも陳腐だ。 にもかかわらず、そう考えることが禁じられている理由、外因はなんだろう。