真似しないで貰えますか?

自分の中でMさんのキツい気持ちの悪さが問題になっているのと同じく。
「KのT人」の編集長の方のブログとスタンスや使っている語彙が被るのも、私の中ですごくイヤな出来事になっている。私は、この本を立ち読みで読んだ事がある。単に必要がなかったのと、被写体が人間や自然の景色の写真に対して、その時素直に感じとれるか分からなかったからというのが理由で購入しなかった。
(ちなみに、私が好きな写真家はブラッサイとベルント=ヒラ?ベッヒャー。片方はつくりごとも含んだ夜の街の、ボリュームのある綺麗さが好きな理由だし、片方は全くのモノが、やっぱりボリュームを持ってこの世にある事を描写しているところが好きで、昔リブロポートで「給水塔」という写真集を見たとき、これは本当の感覚だ、と感じた事を思い出す。高いので立ち読みで終わってしまったのだけれど)。
下の日記に書いた陳腐さの一因を、疎外論にある、と考えてみる。要は人間は言葉を覚えてしまう事によって、全き自然状態や本然から隔たれる、という考え方だ。当たり前だけれど、その全部が陳腐だとは思わない。それでもある部分は明らかに腐れ落ちるほど陳腐で、来歴のある人間から言語を取り去って、まるごと自然状態に戻してどうなるのだろう、と思う。
例えば、ある作家が「菫ほどの小さい人になりたい」と言った場合、それは人間的な感情としてよく分かる気がする。けれど強制的に「人だけが言葉を持っているが、その分利口になるわけでもないのだから、ものを考える事などやめて虫とか動物のように素朴に生きればいいのだ」みたいな事を繰り返し言われた場合、相手の立場はともかく失礼な人だと思うだろう。それは不可能な教化なので、上の空で聞くことくらいしか出来ない。確かに虫や動物は美しいが当面人としてしなければならない事がある以上、そういう事を言う人には、悲しい事ですが、愚痴みたいな共通認識の部分でだけ、貴方の考えは「広く浅く」受け入れられるかも知れませんね、としか言えない。