寺山修司 五月を

たまたま、鯨をご馳走してもらい、ほんの短い間に、昔読んだ寺山修司の鯨漁についてのエッセイの事を思い出す。青森から日本海を通って鯨漁に出るのが大変だとか、鯨の幼体を供養する儀礼があるとかそんな話だった。(調べてみるとそういう戯曲があるらしい。戯曲は未読でエッセイを読んだだけ)。
寺山修司に対して典型的なはまり方をする時期が、大体11から13くらいのころの事で、詩を書き出した
きっかけの一つは、少女詩集の「99粒のなみだ」が、家にずっと置かれていたからだった(
それは多分、私が「この家」に生まれたこととまるで関係がなく、ずっとあるだろうし、ずっとあったのだ、
という気がした)。途中に薄い色違いのページがある、真四角な本。
 もし、「体験加工されていない寺山修司」というものがあるとすると、まずまずそういうものに触れる読み方
だったのではないかと思う。追体験がはっきり画像で自分に訪れるような感じ。他の寺山修司が好きだという人
の解釈に依ったのでもなんでもなかった。

 そのことの反動で、寺山修司がとても苦手になったのだけれど、未だにある種の歌というか、手弱女
的な表出に対して違和感を感じるのは、寺山修司の句をいいなと思っていたことの名残のように思う。

 などという事と別に、ふと、ワンコール派遣とか事務とか、そういう仕事のことを考える。
 一般事務を含む派遣も、ワンコールのデスクワーク系派遣も、品出しの軽作業もしたことがある
のだけれど、私はその場で自分のプライバシーがそこそこ守られてさえいれば、仕事の内容に
すごく鈍感な人間なのだ(淡々とすべきことをして帰るような感じ)
 プライバシーが守られてる、というのは、内面が問われなければということなんだけれど、現に内面を
問われてしまった後でも、何処かでサドとかマゾッホの話が出来れば現象的には帳尻が合うような気がして、
本当はそれが赦されないまま(サドとかマゾッホを読まないのだと思うけれど)、そういう手法を追い込み
の技術として信じきってるほうが完全におかしいんじゃないか、と感じる。


鯨について思い出し、私はそれについて何か書いた事があるはずだったので、書きかけのメモが沢山入れてあるキャビネットの中を探す。案の定、「鯨回向」と書いてある小説の導入部分が見つかる。