ごくあたりまえに、憎悪犯罪があり、精神操作があり、私がいて世界が

 テネシー・ウィリアムズの作品に書かれた景色について。
 たぶん今日の日記のタイトルに書いたような出来事が、てんで
 ばらばらに並列していて、救いようもなく豊かに動いているところ
 を思い浮かべる(その豊かさは、絶対的な禁止とか全く不自由な痛み
 とか屈辱を通って吹き零れてくるものであり、基材になっているのは
「なんもなさ」だ)。
 たぶん「欲望という名の列車」が書かれたころのアメリカには、そうい
った感触がいつも偏在していたのだと思うが、どんなフィルターを通して
なら、それを名指すことが出来るのか。(逆に言えば、いまもごくあたりまえ
に、憎悪犯罪があり、精神操作があり、私がいて世界が広がるにもかかわらず、
なぜそのことを豊かだと思うことが禁じられているのか)。
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 霧のなかにこっそり浮かんでいる、どこか場違いな感じのする
 蜘蛛が、その実何か別の場所への導き手であり、優しい生き物
 だと気づくこと。よく見ようとして近づくこと、その動きが糸
 を吐き出させ、張り巡らされた巣が単なる蜘蛛の糸だとは思え
 ないほど頑丈できれいで、優しいものであること。

 それで見とれていたら巣には小さい羽虫がかかり、霧のなかで
 一瞬見えなくなったが、やっぱり蜘蛛の巣には蜘蛛の巣として
 の厳密なルールがあったのだ。

 でも蜘蛛が優しいこと、それが霧のなかに浮かんでいて、生き物
 にも機械にも見えるということ・・・