霧がかる

夕方から夜にかけて、外を歩いてると、ぼやっと霧がかっていて気持ちがいい。
行き掛かり上よく考えるようになった事のうち、気象と心理的環境が連動しているかしていないか、みたいな事があるのだけれど、例えば雨が不遇とか悲しみの表象になるとしてもそれは一瞬の事で、ずーっと歌謡曲みたいに悲しい雨のイメージにとりつかれている事なんてあり得ないわよねと思う(もしそんなイメージ運用で動いてる世界があったら、それは相当おっさん臭いというかうざい世界だ)。
手元にエンヤとウェザー?リポートのCDがあるんだけど、そういうものはどうなるのよと言うか。
ミシェル?トゥルニエの「気象」はどうなるのと言うか。大体熱帯雨林もあるじゃないのと言うか。

 ほしい本は取りこぼしなく買おう、と思い、「個人データ保護」(名和小太郎 みすず書房)を買う。
(私には高い本なのだけれど、プライバシーをめぐって起こる色々な出来事にどう処するか考えるために
購入した)。

 本のはじめに引用されているW・H・オーデンの詩をしっかり読んだことがないのだけれど、
「鼻のまえ30インチのところ、私自身のさきがけが行く」、、、という感覚は、自分の詩的実感と
しても大きくて、その肌理が壊れること=プライバシーの崩壊、というのは、別段失調しているわけでも
狂っているわけでもない実感よねと思う。
 つくづく悪趣味だと思うのだけれど、今脳科学なり何なりを建前にして「ヒトの感覚質を解明する」
研究を重ねてる人には、そういう自己意識のさきがけみたいな領域(感性的領域)があらかじめ壊れて
るか欠落している人が多いんじゃないかと思う。(壊れているというより、その領域に読んだ本とか
聴いた音楽のアーカイヴをつくって置くことが苦手で、その分科学の専横にかまけて他人のそういう
領域に止めどもなく手を出すというか)。
 断言するけれど、どっちにしろノーベル(科学)賞の射程になるような問題じゃないと思う。
 ベイトソンだってアルチュセールだって、存在論的な次元での持ち出しの感覚を反転させて
現実の分析をした人だと思うけれど、そういうリスクなしで、ひたすら他人のプライバシーに
実験的に言及することを「意識の研究」だというのはめちゃめちゃだと感じる。
 市井でそういう研究を(他の事柄と平行して)している人間に、反駁する余地はまるで
ないんだろうか。