中国や韓国

夕飯をたべてゆっくり帰ってくる道すがら、何だかとっちらかったままの事柄が幾項目に分かれるのか考えてみようとする。
(気象と心理については、私昨年脳科学と多分微積分にも詳しい男の人に振られたのだけれど、その振られ方が、私「人の思考は読めますよね?」その人「読めない事に現行の科学ではなってます。ガリレオガリレイが地動説を唱えた時の事を考えてください」私「(それは中井正一が論文の最初に書いてる、隠蔽の常套句では)」→コミュニケーション終了、という世界一ない感じの振られ方だったのだ。その後涙と雨についての非常にいい感じでセンチメンタルな詩が書けてしまい、雨がふると私がめげてるみたいなムードが漂って鬱陶しかったのだけれど、途中からムージルの「特性のない男」とかエンヤの曲が気になったりしていた。それで一つひとつ考えが完結すれば次の切り口で考えられるのに、上手く事が進まなくてウザい感じがする)。
これだけは早めに書いておこうと思うのだけれど、私ははっきり韓国や中国の抱える問題と韓国や中国に対する嫌厭感情を分けていて、自分に直接迷惑が及ばない限り人の事をエスニシティで差別する事なんてない。迷惑というのは抽象的な事ではなく、それだけは分からない、という慣習だったり(食習慣の違いとか。私は犬とか虫類は食べないし、食事に過剰な意味が付されるのもダメ)そもそもこちらが無下に損なわれる剽窃だったりするのだけれど(もっと言うと出典が明らかじゃない引用の集積をあたかも自分の作品のように語る人の語尾が「たまえ」だったりすると鳥肌がたつ)、それがなければ別に日本も好きだけれど韓国も嫌う理由がない。
という程度に、リベラルなものの考え方の遠心性が保たれていれば、教育のフリした教化とか感情転移とか無自覚な教条主義放射能みたいに浴びる必要もないような気がする。