科学研究費

お茶を飲みながら、結局のところ科学研究費をやたらとつぎ込んで、民間から被験体をとって神経工学の実験をしてる、ただしそれが見込みほどの成果に結びついていない、、、という事が、2000年代初めの事実としてあるんじゃないか、という話をする。
ただ、それで人の意識構造が解明されるということは(繰り返しになるけれど)、全くあり得ない。僭越にもほどがあるし、何か根本的なところで人の心理とか精神現象について測り間違いをしているような気がする。
アメリカのmkウルトラの場合、あとあと政府は民間人に対する投薬を認めて賠償金を払ったのだけれど、日本でも勝手にわけの分からない状態を強いられている人には何らかのケアが必要なのではないか、と思う。
自己意識が社会体に対して一旦閉じ(言い方を変えれば透過しないようになっていて)、建前の部分で利害調整をしながら生活する、というのが、ごく形式的な人間の在り方だとして(この形式化された人間、という言い方にはラカンぽいところがある)、その形式を解除されたものが唯物論的な次元を乗り越えて何か世紀の大発見をもたらす、という迷信にとらわれたままの科学的主観が、例外的な高みからヒトの意識というものに干渉している、けれど当の科学的主観が高みだと思っている場所さえもが、ある一個人が自己決定する事を禁じられる場所と同じくらい脆い場でしかない。
その脆さと堅牢さの拮抗について考えるのは、多少自分が傷ついたとしても面白い事なのだけれど、そもそも否応なしに追い込みを掛けられる人全員がそれを面白いと感じる訳ではないような気がする。
そのあたりの話をしていて、凄くペシミスティックな調子で、「今起きてる通り魔事件に、そういう精神的操作だの洗脳は関わりないのか」と聞かれる。 そんなのは私には分からないのだけれど、関係があるとしたら、せめてそういう考え方の一つくらいは大文字のメディアの中でやりとりされてもいいような気がする。