かけらの家具

 エメラルドの波をアームに取り付けた白く、小さい椅子。座面には白い
繻子がくまなくはりこまれており、座ると背やアームに彫り込まれた波と
風と何か明滅するもののモチーフが、神経や心理を内側からゆっくり「大丈夫
にする」。大丈夫になったまま、あまり堅固なところには居ず、その椅子はいつも
夢の突堤か、部屋の中でも分の悪い隙間に、私にくくり付けられるようにして
置かれている。


 天井には冷えたすみれが敷き詰められている。敷き詰めたときにそこはおそらく
床かほかの一画だったが、花が敷かれたことにより向きが変わったのだ。

 高いところで開け放った窓から、高いところで開け放っただけの空がまるごと
部屋の中に入り込んでくる。

 とても可愛らしいリスを、忠実に解剖学的に描いた柄の変なTシャツが一枚。
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「崖のうえのポニョ」を見に行った。ポニョは素朴に可愛いのだけど、娘にブリュンヒルデという名前をつけて人間をやめて海に住んでいるお父さんというのは、、(ブリュンヒルデが伏線になっている訳でなかったし固有名としてはそんなにポピュラーじゃない気がした)
なんか、「そういう人が居るんだろうなぁ」という気がするけど、そういう人が固着してる口唇サディズムっぽい気味の悪い情動は、別に童話の中になくていいと感じる。
ニーベルンゲンの指輪は、あれは童話ではなく、やっぱりいい大人の不毛な情動の劇であり、そういうものを感覚に備給することによって文化生産がなされているという事もあるにはあるんだろうけれど、それは神経症にもなるわよねと思う。(それこそ五歳か六歳くらいの時に、世界少年少女文学全集でダイジェストのニーベルンゲンの歌を読んだ時に、ここでこのひとたちが取ってる婚姻とかそれを巡る場所と情動の割り振り、その座礁と殺しあいになんの意味があるだろうみたいな事をもっとこどもこどもした言葉で感じており、そういう話の抜けの悪さをこども的に嫌っていて、長じてワーグナーが全然聴けなくなってしまった)。
人魚の姫という話のライトモチーフは、女子(というか姫)の、男性の承認を巡る通過儀礼であり、アンデルセンという人はデリカシーがあるのでそのあたりの事を綺麗に書くけれど、実際問題としては凄くイヤなものよねと思う。
(男性の承認を巡る通過儀礼で鈍くさい思いをすることがある。私は身長の割に足のサイズが小さくて22半だし、手の指も中指で7号かそこらなんだけど、何故か「ゴツい」「デカイ」と言われる事があり、それが生々しくイヤで、去年の暮れごろに本当に神経症になりかけた。指にきれいにマニキュアを塗ろうとして蓋を開けたら、腕ががくがくしてしまい、めったに駄目になる、と思わないのだけどその時ばかりは苦しかった)。