恐怖と美についての覚え書き

ではないのだけど。
少し前の日記に、変なグラビアアイドルにプライバシーを持ってかれて不快だという話を書いた。はずみで書いてしまった「家筋が変」というのは言い過ぎだったかもしれないけれど、目つきを見ているとどう考えてもまともじゃないと感じるため、駄目おしでもう少し書いておく(最初キモイと思っていたのだけれど、段々飽きてきた)。
人格障害から癒えようとか、どうにかしてまともな方に生活を持ってこうとしてる人間の外傷は絶対こういう形をしていない、ということと、結局おっさんの欲動まみれで盗撮とか盗聴に順馴させられる20代前半の人間なんてこんなもんなんだよね、という虚しさからついきつくなるのかも知れないけれど、ともかく顔もぱっとせず周りの人間を嫌な気分にさせてきたのだとすれば、無理して恥の再生産するのを止めればいいのにねと思う(例えば私は堀北真希がとても好きで可愛らしいと思うのだけど、何らかそれらしい可愛らしさがあればまず芸能界の訳の分からない慣習だけが集約されたような役回りにならなくて済むよねと思う。要は取ってる行動が集約されているような雰囲気の、うざい感じが駄目で、何だかイライラしてしまう。そういうのに巻き込まれるとこっちの感覚までうざくなりそうで気分が悪いというか)
同じような事を、最近梅図かずおの漫画についても感じる。
怖さと外傷的体験を描きたい、と思うから、あの目の大きさであの逆立ったまつ毛であり、世界が虫の中にあったり○△□だったりするのだろうけど、本当に怖いものってそこまで人を釘付けにするような形をしていず(基底にある外傷性にだけ縛られたものではなく)、怖さを記号的に集約していく過程で描きこみきれないものとして現れる気がする(という意味で、私は川口まどかの「死と彼女とぼく」というホラー漫画が物凄く怖い。ラカン的にもカント的にもデリダ的にも怖い。今まるでホラー漫画なんて読まなくなってしまったのだけれども、十代始めの頃にこの漫画を読んだ時は、結構はまった。小さい頃から何故か死者―霊という書かれかたはしていない―が見えてしまう女の子が主人公なのだが、淡々と視られているそれは、そもそも霊感というなまえで人に生じる感覚の違いが、視差とかちょっとした<記述の違い>でしかない事を感じさせる。だから洒落にならないくらい、怖いのだ。自分が傷ついている、という考えはありふれたものだけれど、傷ついた他の感覚が、自分と根本的に生きる場所を違えながら、何故か自分には感じとられる、というのは、基本的にその感覚の幾分かを引き受けなければおさまらない。ショックを受けるような感情の表出とは違う)。←ここまで書いて完全にデリダのようだな、と思うのだけれど、インタビューで川口まどかさんが「死と彼女とぼく」で書きたかったのは、「死者に対する敬意だった」と発言されているのを読む。