ヴァナキュラーなもの

 電車に乗っている時に、よく沿線沿いの建物を眺めて色々と考え事をするのだけれど、
つくづく一部屋あれば人はまともに癒えられるし、次の日ぐったりすることもないのよね、
と感じる。でも同時に否定神学みたいなものの事も考える(という意識が、私は結構モダン
な気がする)。
 ムージルの小説に、ウィーンのある時期のアパートはどれも同じ形をしていて、その中に
ある生活もおおむね似通っていたけれど、その分外延が増えるようにして退廃的な文化が栄え
たのだ…みたいな文章があった(うろ覚え)。そういうときに視るものの視覚的な豊かさという
のは(何が退廃的かということはともかく)、あとあと人の意識の基本的な構造と照らしてみて
すごく本質的なので、そのまま街中に残っているのだろうな、と感じた。で、そんな場所は
あるところをちょっと過ぎてから、ふっと甘さとか明るさが漂い出るようで、制約された意識
自体と別の素材(無意識)がある、ということを感じさせた(意識の反証として無意識が累積
されていくみたいな不思議な感じ)。

 でもそういう場所より、もっと土俗的で身体のあり方に近いような(意識という語に制約
されないような)場所も大事なのかもしれない、と思う。
 ヴァナキュラーという言葉が好きで、でもぜんぜん理解し切れているとは思えないのだけ
れど、人それぞれの楽な感じを支えられるよう、充分練られた物質性で居場所を満たせれば
いいのに、と感じることがある。