バスタブ

 道路の中に張り出した、赤い実をつける樹の枝の上に、私の場所は乗っている。
 空とのつながりを残した、それを垂直におこした壁は白くて清潔であり、
 あらわれ出ているものと、個別の心理の境界でもあった。
 そういう言いかたは、すごく世の中に合わなくて−怒られてしまうのだけれど、
 部屋と部屋の境に壁がある、ということは、ある時期まで当たり前だと思っていたのだ。
  自明性、というのは、自我にまつわるマイナスの出来事じゃなくて、ただ単に、
 この世がまだ戦争とか、天変地異とか、それらに類する難しい事態に侵されて
 いないことから、感じ取られる感覚だろう。今日続くことが、明日も続く。
 そのための符牒だとしか、考えていなかったのだ。
 けれど、色々な経緯から、狂乱的なものが、生きてて感覚している自分の中に
 ちりばめられた。奥の部屋の、もっと奥の場所に隠されている小さなバスタブ
 (ただのプラスチックで出来ていて、長いくさりについた小さなゴムの栓が、
 なまぬるい水を押しとどめている)の中に、私は浸かっていないのに、何度か、
 その中で水を吐きながら、切望するみたいに自明性、と考えてる自分を見た。
 
 そもそも何故、怒られてしまうのだろう? 壁があり個別の意識がある、と考える
 だけで。
 という問いかけは、いかにもこなれていず、ノイローゼっぽく、単に壁がある、という
 ことよりさらに周囲を怒らせる原因だった。
  それは単に事故だったのだけれど、まだ色々な仕事が出来ると考えていたころ、雑誌編集
 の仕事を供給する派遣会社を経営している、もと全共闘の会社役員に、「昔できなかった事の
 解消しづらいトラウマみたいなものを、若い人に投影するあまり、相当変なことをしているんじゃ
 ないか」と問いかけてものわかれに終わったことがある。大文字の世間は、そう簡単に言及するわ
 けにはいかない事ばかりでもあるのだ。
  そのとき、「昔できなかった事」というのは、ありていに言って「革命」の事だったのだけれど
 も、革命が成就しなかったトラウマ、というのはいかにもヒロイックで、自分の傷ではないと
 しても口にしがたい。そういう居心地の悪い出来事の秘匿と神秘化とで、私と彼は今でもゆるやかに
つながっているように思えた。
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 書きながら強烈に「続きが読みたい(書きたい)」と思うのだけど、その事が現実にも作用している(時代のそれらしさを限定している)外傷性みたいなものを言い当てるとすれば、やっぱり商業化は難しいだろうな、と思う。
(これを書き始めた4時ごろに、何となく「ビートルズの気味悪さ」について考えていて、ビートルズの動画を見ていたのだけど、例によって態度を丸ぱくりしてるキモい女がいてとっても感じ悪いのだった。私はとにかく自分の言葉とか価値観のない、自己顕示欲ばっかり過剰なタイプが男女関わらず大嫌いであり、勝手にこちらの価値観に言及されてもまずそういうタイプとは真剣に付き合わない。)
ビートルズはしょっちゅう聴いていた事があり、気持ちの悪さを感じているとしても凄い音楽だった事に変わりないのだけれど、もっと楽に聴ける音楽に慣れた後だと凄く難解なもののように感じるのだった。