赤い籠の中の魚は、、

霧に濡れた籠が海辺に放置されている。魚が何匹も、尻尾の硬い線を見せて籠の中に入っていて、泳ぎながら水の中を見ていた眼の気配を、籠の外側からも感じとる気がする。 すると籠は僅かながら海に還ってゆくようにも見える。やがて籠自体が魚と同質の硬さと柔らかさ、移動の様相を帯びる。
堅牢な田舎の役所で、自分と関わりあったある年配の女性の来歴を調べる。女性はその土地で長年、その外の場所を思う事もあまりなく暮らしていて、外から来た人間と自分の間に、神秘的な因縁を見つける癖を持っていた。私が幾つものしがらみの記録を湛えて妙にしっかりとしたその閉鎖的な役所で、彼女の事を調べ尽くそうとしたのは、彼女と私の間になにもない、ほんの数日行き違った以外、「なにもない」という事を画定させる為だった。彼女は私と縁戚関係にあるものではない。けれど生きた人間の思考と言葉に満ちた身体を前にすると、その事の説明だけが、とめどもなく困難なのだ。

ラカンを読んでいて面白いのは、どんな情動も構造としてそこにある、という事を言葉で表そうとするところで、私はどうしても「頑張ったねぇ、面白いね」と言いたくなってしまう。とはいえ、実際にパラノイアに近いような思考回路の人が強烈な認識(誤認とか、「今の科学じゃ解明出来ない」ような考えも含む)を伴ってそこにいる時に、完全にやり過ごすのって結構難しいように思える。
例えば未知の世界というものがあるとして、女性の場合(性差を持ち出すのは変といえば変だけど)、そこに完全な超越を見るより、なんか見たこともない世界に残余のように機能している普通の感覚にフォーカスしてしまわないだろうか、と感じる。多分2つ焦点があるのだ。超越したものに向かう心理状態と、日常性に向けて平行に流れる(普通さ、を焦点にしている)感覚と。
たまたま、某団体の霊感商法が摘発された、というニュースを読んで、例え「この印鑑買わないと貴方は不幸になるから」と言われたとしても、印鑑が何十万もすれば「これはヘンな話よね」と気付くのが世間知というものなのだろうな、と思う。