中庭に見えない

 はじめに目に入るのは幾何学的な、ひし形の石が沢山積まれた一角で、
それが視界に入ると、人間しかこうは作らないのだ、と思う。自分の
思考とリアリティの相互乗り入れみたいなことを、黙々と思っていた。
それがあまりにも頻繁に起こるなら、段々とひとはひとらしく見えなく
なるだろう。けれど自然物についてはどうか解らない。雲や木、風に
乗せられてくる小さな穀物のかけらみたいなもの。
 そういうものが沢山集まってきた場所は、中庭に見えない。周りを
取り囲む建物の外と地下で通じて、もっと具体的な何かとつながろうと
している。

 行きがかり上。。
 数回、某出版社さんが企画した茂木さんと斉藤環先生の往復書簡について
言及した。私はこの書簡の企画がアップされた後、茂木さんがすぐにラカン
ついて見解を示すはずだと思っていたのだ。単純な感覚として、フロイト
ユングも、ラカンも、読まれているだろうという思い込みがあった。往復
書簡の一回目でパラダイムの違いについて触れられているけれど、科学的
な見解(大脳生理学と人間の感覚発生という結びつき、その神経工学的な見方
とか数式化)と、心理学的な見解(ひとの心理的綜合が、現実の充分社会化され
た場からどれだけ影響を受けてるか、受け損ねるか、ということを数理に依らず
分析していく)の界面で発生する緊張みたいなものは、そう簡単に緩和されない
だろうし、相手の持ち分と界面が解った状態でやり取りが行われるのだろうな、と。
ラカンに厳密な数理化はないけどシェーマはあるので、そういうものがどう捉え
られているかを考えるだけでも面白いと思ったのだけれど、週刊文春で斉藤先生
が書いているように、「いい人パワー」とか包括的懐柔主義が働くとまずいと
思うのだ(それにしても「わざと痩せないようにしているんじゃないか」って)。

 あっまたパクられた・・・自由とサンゴ礁がパクられた!!