私の民俗学

「神に追われて」は、南方の巫について書かれた本で、読みながら
シャーマニスムの過酷さみたいなことについて淡々と考える。
(ここに「淡々と考える」と書いても嘘になるかもしれないくらい、
内的な過程だった。私は基本的にシャーマニスムとか、霊的な
ものとか、そういうもの全般を認めたくない、と思っている。というより
は、そういうもの向けの抜けのいい景色の広がりがないところで考えては
いけないことの気がする。この場合抜けのよさは、考えの有限性みたいな
事柄を意識しないですむということなのだが、都心部であれ田舎であれそ
ういう場所はあまりない気がするし、生半に神秘主義的なコードに囚わ
れている限り、そういう場所を感受することは出来ないのだ)。
 広告代理店の悪口をあまり言っても仕方ないとは思うのだけれど、そこ
に集まっているのはこの生半な神秘主義を色々な媒体に委ねて、ひとの
精神に重ね焼きしていくような方法だろう、と思う。ディスカバリー
ジャパン、みたいな。それで齎される神秘主義的な知覚が、
南方の巫のような「神秘主義の絶対的な受動性」-それを「運命」と
言い換えてもいい-を伴っているのか、また伴うべきなのか、私には
全然解らない。
 解らないので「私の民俗学」を読み始める。

             ♪
 読み始め少しのところで、正統な民俗学者のフィールドワークなり文献収集と
社会学なり新手の宗教思想がらみの民俗学的転用とをしっかり分ける必要がある、
と思う。(単に自分が読むときに、混同したくないというだけのことなのだけれど)。
大学原理研だのメディア利権が絡んでる後者に精神的感応を強いられた場合(なんて
いかがわしい書き方なのだろう)、最低ひとつくらいは正統な民俗学に依拠したコード
で、自己意識の生成とそういうものとが触れあう界面を護る必要がある。
(時間のあるときに地名研究所と、大阪の民俗学博物館に行ってみよう、と思う)。