アドルノを聴きながら読むというのは

考えてみればピアニストとしてCDまで出ているのだから、そういうのもあり得るのかも知れない、と思う(でも何でか、批評の文章を読んでて音楽的だと感じる事がないのだ)。
どうにか「本来性という隠語」を読了する。ベンヤミンとの往復書簡で、神秘主義的なものに対する抵抗(フロイト)としての唯名論的なものの作用にアドルノが言及する時、確かにそういうものがあると言う気がするのだけれども、その事を科学的に画定する方策があるのか、切実に解りたいと思う(それが個人の器質や神経反応に及んでいたとしても、隠語のやりとりに始終するコミュニケーションはやっぱり言語ゲームのようなものでしかなくて、科学的ではないという気がする)

                                  ♪

 このあたりのこと、茂木さんはほんとにどう考えているのか疑問。(というより、クオリア理論自体にどう捉えられているのか)。
 例えばチャーマーズは、ソール?クリプキについて著書で触れているけれど、人のリアリティが言語を媒介にして多元化する中で、なぜそれでもある程度の
 まとまりを持った自己意識=現実が立ち現れているのか、一回性の称揚とかロマンティシズム抜きで考えたいと思ったときに、やっぱりものの名前によるラベリング
 の作用は大きい気がする(村上春樹の「1Q84」には、そのラベリングと現実の一元化の過程が書かれている気もする)。でもそれは言語作用どまりで、数式とか
 位相空間についての解には反映されていない(当然、私の思考と私を取り囲む事象の空間にも立ち現れていない)。にも関わらず、これだけ非科学的に執着される
 と、その先どう考えるべきなのかよく解らなくなってくる。
  創価学会を全部ナチスみたいなものとして断罪するつもりはないにせよ、その中でやり取りされているコミュニケーションの一部は、完全に隠語への耽溺でしかない
 ので、ある層から絶大な支持は受けていても、ある層からは確実に排除されているわけで、その支持と排除の入り組み方を問題化したほうがよっぽどノーベル賞に近い
 気がするのだけれど。
  いい加減、何度も何度も自律した考えを持ちたいと、このブログ上でも言明しているのだけれど。

 琥珀のかけらがいくつも流れ着いた場所で光の角度を測ろうとする。薄目を開けているときの旅が路を行くときのごく、当たり前な場所の見えかたに重なり、柔らかく
反射する。夏の、手のひらの重みと滴る熱い沢の水系。行く顔の中には幾つも初動の影が刻み込まれたものがあった。