呼吸

 少し前に家のものに「愛の悪魔」とフランシス・ベーコンのことを説明するとき、
 インテリアデザイナーから画家になって、とても気持ちの悪い絵を描く人なの
 だが、自分の家に入った泥棒と同性愛で懇ろになり、泥棒にモデルをさせていた
 けれどそれが原因で泥棒がノイローゼになった、と言った(これは単に映画の
 ストーリーで、私は淡々とベーコン複雑な人だなぁ、と思いながら見ていた)。
  そんな自分の説明を、ボーっと聞きながら(トリプティクのことを思い浮かべていた)、
 20年代にインテリアデザインの仕事を生活のためにするのって、上辺のきれいさで
 なく存在論的な次元にヒビが入るようなことも沢山起こったのだろうなぁ、と思う。
 考えすぎで単にマイブリッジとか、普通のお部屋らしい空間でレスラーみたいなもの
 がドロドロになっている恐怖感のある画が好きなだけだったのかもしれないけれど。
 (手元にベーコンについての本が一冊もないので憶測だけれど、多分ドゥルーズ
 ベーコンという人の喘息の感じに呼応したのではないか、と思う。あの喉の病気が齎す独特の
 感覚と、絶対にそこから先に出たい、という気持ちって、絶対に生半な教化では懐柔されないこと
 なのだ。哲学者の傍系であるから付けられた哲学者とそっくり同じ名前とか、喘息由来
 の独学、馬の調教に備わる機械的な次元について、私は凄く感じ入ることがある。それから4,50年
 代の、妄想ではなく妙で超越的なもの-戦争と、権力-が絡んでくる滑稽な恐怖と)。


 特定宗派(それは端的に言って「創価学会」なのだが)が、個人の精神状態のトレースを行う、 
という妙な話を、どうしても当の宗教の下世話さから解放された何か含蓄のある話に昇華したい、
と思っていて、そういう努力を払っている自分が特に変わり者だとも人として問題があるとも思え
ない。そんなことより、何故「自分の精神」の固有性を脅かすこの宗派に、社会は妙に甘い
のだろう、と感じる。
 痴漢もそうなのだが、芸能がらみで事件を起こした人間のバッファとして機能しすぎであること
を考えても、創価学会は宗教ではない。本質としてはただの捨て場か掃き溜めでしかない。
 その掃き溜めから来ているものを「幽霊」(デリダ)とか言うのは、何となく言いすぎの気が
するのだけれど、そのあたりのことをセクト規制法と絡ませた場合、カルトと同位してしか動かない
「日本文化」とか日本のナショナリティって、どんなものなのだろう。