睡眠時間の切り詰めについて

 読みたいと思って「最終講義 分裂病私見」と「分裂病と人類」を立ち寄った本屋さんで
探すが、見つからない。探しながら「スキゾ」のツリー化みたいなことが企業体の中
で起きている、という事を考える。でも数学的な意識の解明とか、とにかく何か溜飲の
下がる事態になんて結びついていないばかりか、深部でエセ差別問題やカルトと結んで
いるそういう領域の話は、とても気味の悪いものでもある。大挙して反動化した80年代
的な文化人、みたいなことも思う。

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 少し睡眠時間を削れるようにしたいと思うのだが、具体的にどうすればそれなりの規則
正しさを保ったまま体質改善出来るんだろう。3時間くらいしか寝なくてすむ、という体質
の人がすごくうらやましい。昔向田邦子さんの本にそんなことが書いてあった。

 ワイン色の革から滲んでいるそれと同じくらい柔らかく、底にかげりのある色。部屋一杯に満ちている。色の中に銀のソファが浮き沈みしていて、取り掛かりの無い身体が厚みもなく滑り落ちる。ソファは喩でなく銀で出来ている。薄く引き伸ばした銀の箔が横たわるひとの名も埋もれさせるように積み重なり、人の温度に溶けようとしている。でもひとの身体のほうでも、銀を溶かす隙を与えようとせずひそかに厚みを無くそうとするのだ。その張り詰めた一膜の層を使って夜の時間が流れていく。

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 これは昨日のことなのだけれど、仕事場から帰るときに微分的回路のことを考え、何となく長嶋茂雄のことを思い浮かべていた。
(野球選手が野球のために現実を見るとき、恐らく一瞬以上リニアな時間感覚を離れて周囲の空間を把持するだろう。サッカーの
方が多分微分的で、散り散りにボールを追うことに比べるとバットでボールを打った後ベースに向かって走る野球には積分的なもの
もあるのだけれど、ともかく「打つ」とか「投げる」ということには、一旦なめらかな時間をバラバラに解体して捉えなおすという
モメントがあるはずで、それが普段の会話や生活の中にふっと持ち越されると、ちょっと不思議な感覚になるだろう、というような
事を考えていた。野球もサッカーも球場で見たのは各一回づつくらいなので、あまり説得力の無い話なのだけれども)。
 そうしたらやっぱり内田樹先生の日記にイチロー長嶋茂雄についての言及があり、前半「身体のメンテナンスをする」という件は私が以前日記に書いた
事とかぶるのだ。何度も書いているけど、別段ここに書いているようなことは人から真似されてもイヤではないのだけれど、あからさまに精神的な領域
に肉薄するような真似はやめて欲しい、と思う。すごい気持ち悪い。
 日常的なことをする必要とか、まともな人と淡々と取っているコミュニケーションのことを考えると、いちいち霊性だの精神的なものだの、それに対する
衒いが作用する出来事が異様にうっとおしく感じられる。この手の衒いだけが延々創造性と取り違えられているような文章を書く、老年期に差し掛かっている男のクリエーターとか批評家とか、別に世の中に必要とされていない気がする(大体、自分で自分の価値観
を構築することも出来ない人向けの論説なんでしょ、と思う)。
つくづく頭痛いなぁと思うのは、別段転職する気はないにしろ、仕事の紹介サービスから案件が来たときに、社会的な態度みたいな
ものが目減りさせられている自分の立場を説明しきれないところなのだ。