自明性の領域

あんまり強い雨の中だと運転がおっかない。今丁度msnのトピックスに上がっている「殺処分になる猫を助けた警官」云々という記事も怖い。台風やだなぁ、と思う。

物件の資料整理をしながら、多分家一件の中に確保されている普通の感覚が人から離れる事は一生ないだろう、と思う。だとすればそういう領域は他人に透過しないものとしてだけ扱うべきなのだ。自明性というのはあると確信させられるこの頃。

昨日の雨の一番強い時間帯に黙々と運転しながら、教習所で習ったとおりライトが当たった前の道の様子が全くわからないことを確認する。車に避雷針ついているんだろうか。ともかく台風一過。
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 石上玄一郎さんが亡くなったという事を知り、ものすごい複雑な心境でこの方の小説をまとめ読みしていた時のことを思い出す。
 「意識」の問題を日本文学で、理論から取り扱った人を知りたいと思ったときに、当時の私に調べられたのは新感覚派周辺のモダニスム文学の
 受容し損ねと、新青年モダンのようなもの、マチネ・ポエティックの周辺と、石上玄一郎の「即意識の文学」だったのだ。
 「悪魔の道程」という本で図式化されているそれは、フッサールを下敷きにしているものなのだけれども、相当異様な理論だったし、
 石上玄一郎の小説も完璧に異端なものと感じられた。図書館の書庫から出して来て読んだ「精神病学教室」も、「自殺案内者」も、今は容易に読めな
 いだろうという気がする(高見順が「文壇日記」で、中国文学研究会の時の石上玄一郎の印象を二度三度書いているのだが、いわゆる昭和十年代的な暗  さだけではなく、超古代文明とかいわゆるオカルトにつながるある種の左派の原型的な暗さなのだ。当時はそんな事を全く意識しなかったし、オウム
 事件から来る精神世界的なものに対する抑圧みたいなものもあり、創価学会の支配性も私の身の回りでは全く希薄だった。著書が多く創価学会
 の出版社から出版されていることをからしても、学会系の出版社といわれているところは、昔からライトな精神世界と仏教の超越性、偽史の多重性とオカ ルトみたいなものを一括して掬い上げるような下地があるのだろうなと思う。気味悪くて排除の対象になるようなものの見方なのだが)。
 文学の中で「意識」が問題になるとき、それがソリッドな構成じゃなくて多分に自我過程のことを指すのを、今でも不思議な事だと感じる。