手元に/カフカに詳しいけど仕出しとケータリングも出来る

 10年くらい前に友人だったWさんという女の人(某図書館の司書だった)から借りたままに
なっているラカンの「アンコール」フランス語版がある。Wさんはこれをカルチャースクール
みたいなところでテキストに使ったんだと言っていて、そういう状況があるところにはあった。
心的構造とか、何をどう見たときにリアリティを感じるのか知りたければ、みんな普通に
そういう本を買って読もうとするわけで、個々に考えを掘り下げてるときの人は<テレビ的>でも
なければ、2年半回答を放置したままの人間が何か具体的なことを知ってると思うほど甘くもない
と思う。

 ラカンを読むときにポイントになる主体の空虚さ(これは別にニヒリスティックな意味でなく、
斉藤環さんも書いているように「底が抜けている」こと)は、宗教的体験と照らしてみると結構
輪郭がはっきりすると思うのだが(ジョイスを分析した「父の名」とか「法悦」とか、時間的に要約して
書けないが基本的にはキリスト教に最初の基盤があるし、<空虚さ>はブランショが聖書に内在したものと
してみたような形で、宗教の起源にあるテクストには常につきまとう。私は仏教詳しくないのだけれど、
般若新経の色即是空も似たような感覚なのではないかと思う)。
 そういうものの内実が「神経工学的に」どうなのか、「科学的に」何なのか、もし解れば大変に面白い
しスリリングなのだが(それは難しいので、私は小説らしきものを書きとめて内実を探ったりするのだが)、
実際何もないわけである。で、アンタ何だっけ、と感じることがある。こいつから教わることなんて何も
ないし、第一まともに他人の感覚(まともな人間は出版社から投げられた企画の回答を2年半放置しない)
を取り込めてない人間って何なのよ。そういう奴から「なかま」だと思われるとこちらの調子まで狂ってくる。
 

私は哲学に詳しいけど食品衛生責任者資格も持ってるので、ケータリングカーは運営出来るのよねと思う(前述のアルバイト先のレストランで、シェフのNさんはいい人だったため、「大きくなったらジューススタンドを経営したい」と言っても半笑い位で許してくれた)。
ただ怪しい思想と相互乗り込みしている移動販売というと、1Q84にも出てきた団体とかぶってしまうので、料理はウィトゲンシュタインがどうとか考えずするのがいいと思うのだが、それにしても茂木さんは、いつまで私に付きまとうつもりなんだろうか(今日の日記も微妙に対応関係が出来ているところが寒い。俺もカルチャーセンターで外国語使う講座を持ってんだぞ!って空威張りされた感じ)。
私は一応35歳までを一区切りと考えていて、その年齢で子供がいたら在宅の仕事か仕出しでもしながら子育てに専念するし、いないならいないで結婚相手を甘やかしながら共働きするつもりなのだが(ウィトゲンシュタインはその時読めるはず)、どっちにせよ食べ方とか生活感情の穢い半端な宗教は、世の中の大半の人が馬鹿にするのと同じように内心小馬鹿にしたいと思う。
うわぁ、壮絶だと思うのは、2年半といったら充分に調理師免許取れるところ。その間ひたすら本分はいい加減にして、もっぱらテレビ向けの自己演出とパクりで時間稼ぎしているところ。