ベンチ/苫米地英人

bobbinsmall2010-01-18

必要があり外に出ながら、毛糸の帽子を被っているひとは結構多いように思う。ゲージを取ったりしながら、機械編みもしたいと思い、少し機械について調べる。

電車の中で去年壊れた靴の事を考えていたのだが、家で量ってみると体重に変わりはないのに、一年で四足もダメになったのだった。みんな結構しっかりしたメーカーのものなので、そんなペースで壊れないはずなのだが、何となく「あ、これはキモい」と感じさせる外在性ってそんなところにも現れるのかも知れない、と思う(朝日ソノラマから出ているような、文庫本を少し厚くしたようなタイプの心霊写真の本を、子供の頃に欲しがった事があり、祖父からそういうものを読むと狂う、と言われた。私は今霊とか神だの仏だのをまるで信じていないのだが、そういう本のあるところには心的エネルギーの滞りみたいなものがあって、不用意に触る必要はない、という戒めだったとすれば頷ける)。
 今日の日記に掲載した写真くらいの高さのヒールのものを、ほんとは毎日履きたいし、ヒールが低くてもきれいな靴が好きで好きで仕方
ないので今年は靴が壊れないといいと思う。

通り道に置かれている、凄く古いベンチの形から、中のFRPが劣化して絡み合ったなにかの結晶か霜柱みたいに見えており、気温の低さが余計に感じられる。

先日の会話に出てきた「ホメオスタシス」なのだが、割にボディセラピー習得時代に耳にした言葉であり、ワイル博士も確か言及しているのだった。
でも世の中にはホメオパシーとかアロマテラピーみたいなものを非科学的だと言って遠ざけるか、「気のもちよう」の範疇で発揮されている効果を蹴倒す流れがあって、当然「正当な医療的知見」なのだが、実はその中に滞っているものがとてつもなく邪悪でアーティフィシャルなんじゃないか、と思う。たまたま出てきたスクールの機関紙に、割に正当性のある禁煙についてのトピックが書かれており、それに比べたら「禁煙ファシズム」なんて先回りの逆ギレだと感じてしまったせいもあるのだが。
医療事故の隠匿やメディアを悪用したストーカー行為、整形依存や自明性を放棄した筋の通らない態度を解禁にする、過度に医学に統制されたパラダイムがある。その中で亡霊みたいに呼び出される非科学的なものは、同調したり自分の身体組成に組み込むにはきまりが悪く、アブジェクションの対象になるものだが、同時に医学や科学に対する一般的な引け目の感情(私は相対性理論を知らないが、相対性理論に明るい科学者が「語りえぬものはある」というとき、そこには汚穢を越えた何か神秘的な組成があるかも知れない、という根拠のない期待のようなもの)を刺激し、主体に何らかの痕跡を残す。そういうヒステリックな滞りを、常識の囲内で組み換えることは(無理もあるにせよ)自分の脳なり身体なりに課せられたリミッタを外す作業になる。
 とか考えながら、苫米地英人という人のサイトを見ていたのだが、もし「脳科学」っていうジャンルなら、私こういうノリのほうがまだ
向いているのかも・・・(といっても脳科学自体、別に詳しくないし、なんのノリと比べてかと言ったとき、韓国系カルトとか中共的な意識
操作のノリというのが、どっちにしろどうしょもない感じなのだが。でもまだ自分の思考が形骸化せず動くような気がする)。

     ♪
 そうこうしているうちに声量がまともに戻ってくる。
 私は基本的にきれいな日本語を喋るので、狂ったり駄目になったり洗脳される必要を感じないのだが。