浮き世離れではなく

bobbinsmall2010-02-21

「普通に考えてこれはどうなのよ」と思わせる事柄の、普通さ、というものの根拠を自分が何処に求めているかを突き詰めて考える。やっぱり唯名論的なもの。名というのが漠然とし過ぎていれば、ある事柄にマーキングを施すための言葉だけが問われるような地点、その言葉があったからこそ起きた、という出来事が確定されている領域がある。そのことは普段、認識されない。認識し過ぎるべきじゃないのだ。


これは恐らく子供の時からそうなのだが、黙っていなさいと言われると何時間でも黙って作業出来るのだが、喋りなさい、と言われれば確実に1日本1冊分喋る部類の性格で、そういう時にパロール人格とエクリチュール人格の分離くらいはあるのかも知れないな、と思う。(太宰治みたいなてらいの問題じゃなく、単に内面にシフトしている時は所字的なものに感覚が動き、喋りながら確認している時は、抽象性の薄い日常的で具体性の高い出来事に感覚がシフトしている感じ)。
ドゥルーズとかも確か二重簿記を引き合いに出して、そのあたりの事情について書いており、自分のなかで「記号と事件」のような本はそういうメカニスムについてのエッセーみたいなものだったのだが、ここ数年で誰が生物学だの科学だのの問題として、そんな話を解明出来たのだろうと思う(もしそれを本当にした人がいれば、間違いなく卓越した存在だけれど)。

そんな話はちょっと放っておこう、と思い、近所で買ってきた美味しい「梅あんぱん」を食べる(天候がどうでもよいのと同じで、梅あんぱんは単に食べたかっただけ)。

その後ちょっと調べてみて「記号と事件」が文庫で出ていることを知る。わあ、、時間のある時に買ってきて読もう。「管理社会について」はもう一度読みたい。