ライフイベント忌避症候群?

思うところあって、自分が数年クリスマスとバレンタインと誕生日に何をしてたのか調べてみたのだが、私その日にはあらゆる記述を止めているのである(なんか、律儀。「沈黙しなければならなかった」のかどうかは私も知らない)。

このブログで数度ウィトゲンシュタインに言及しているが、「宗教哲学日記」を再読しながら、まず皆ウィトゲンシュタインが大好きだね、という気持ちになる(記憶が定かであれば、私はこの本を何かの「自分へのごほうび」で買ったのだが、ごほうびとしての意味は無いようにも思える)。2年前に旅行に行った先で、本当はウィトゲンシュタインのストンボロウ邸が見たくて仕方なかったのだが、降りた先で電話予約をしようとしたところ誰も出ず、その夢は叶っていない。
 ウィトゲンシュタインはお家に居るときの自分が、どれくらいの分量考えるかしっかり決めているように思える。それから、何かを考えたとき記号を感覚に引き当てる
ことで、その時間帯の自分が何者だったかを正確に推し量ろうとする。当然それは挫折する試みで、ウィトゲンシュタインは神にめぐり合っては逡巡し、自分のセクシュアリティに衝突し、愛していた女性の世俗的な願望を晴天の霹靂みたいに受け止めて離人症のような態度を取る。夢と仕事の比重を同等とみなし(それはジャコメッティとも同じで、内部の嵐のようなものをやり過ごそうと記述するタイプの芸術家の正しい態度だ)、庭師になり、小学校では熱心に教えすぎたあまり暴走する。
 17くらいのときに初めて名前を知ってから、ずっと同時代の人、という気がしていた。というよりは、日本文学からいつも不自然なかたちで欠落する「意識」の領域
に、それに対する思考のモジュールを持たない、大雑把で単調な神学がやがて暴力を加えることがあっても、ウィトゲンシュタインが読めれば少しはどうにかなるのだ。