【メモ】ESP実験

超能力というものに関心はないのだけれど(電車の中で意識に対する即物的なオペレーション、という場合の即物性って何なのかと思っていて、薬理とか脳の分泌物を変える手段によって意識が変わるような方法のことなのだと思うが、それが自分の身体をリミットにしなかった場合いわゆる超能力みたいな話になってくるなという気がした)。アーサー・ケストラーは何というかそういう感覚で最後服毒自殺しているのだろうという気がする。
「まず、アインシュタイン、ド・ブロイ、シュレーディンガー、ヴィジェイ、ディヴィッド・ボームをはじめ、素粒子の不確定性や非因果律を受け入れようとしなかった著名な物理学者―彼らはこれを、素粒子レベルの事象はまったくの偶然に支配されている、という意味に解釈した―が、これまでに何人か存在している(アインシュタインがはいた名文句、「神はサイコロ遊びはなさらない」にこの態度がよく現れていよう)。彼らは素粒子レベルより下にある種の実体が存在し、それが一見不確定と想われる過程を支配していると考えた。これは隠れたる変数の理論と呼ばれた(しかし、それを追い求めてもまったくの徒労に終わるように見えたから、忠実な支持者からも見捨てられることとなった)しかしこの理論は、物理学者にこそ受け入れられなかったが、形而上学的、超心理学的な理論にとっては実り多き畑となった。神の摂理は物理的なマトリクスの中の不明瞭な間隙部分から作用する、と神学者は唱えた(「間隙の神」)。またノーベル生理学賞を受賞したジョン・エクルズ卿は、「きわどくバランスを保っている」神経細胞の量子的不確定性が、自由意志を行使する余地を作り出していると唱えた。

活動中の大脳皮質では0,02秒以内で、何十万の神経細胞の放電パターンが、最初にたった一個の神経細胞の放電が引き起こした「影響」の結果として規定されてしまう。

したがって「意識」は、活動中の大脳皮質のこの特異な検出機能により影響される時間的―空間的な「影響野」を作用させることによって、神経細胞のネットワークの時間的―空間的活動を規定しているというのが、神経生理学仮説である。

人間一人ひとりの精神作用が「自分自身の」大脳にどう影響するかについては、この理論が適用できよう。しかしエクルズは、同書の最終章で、その理論にESPやPKも含めている。彼はラインやその一派の実験結果を、精神と物質の「往来」の証拠として、あるいはまた精神の間の直接的コミュニケーションの証拠として受け入れる。精神という意思の作用が、物質である自分自身の大脳に影響し、その物質的大脳が意識的体験を生じる―これとまったく同じ原理が弱く不規則なかたちで現れたものがESPであり、PKであるとエクルズは考える」

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 まともにノーベル賞を取っている(ノーベル賞がどれくらい偉いか私はよくわからないのだが)大脳生理学者量子論者が意識の問題やまともに駆動していない意識(エスパーの意識はそうだ)に関心を持っていて、研究していたというお話は単に状況論として面白い(ケストラーの科学論の状況論としての面白さはすさまじい)。
 そういうのが新興宗教とかオカルトの文脈に取り込まれて、一個人のリアリティーを侵食してるという過程があるんだと思うのだが、どうでもいいけど自分の脳が素粒子レベルで実測されていたらすっごい気持ち悪いなぁと思う。

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 ESPなりPKがオカルトの粉飾や新興宗教の教義と関係なく科学的なものの射程になっていた流れがあり、それを科学史的に扱うリテラシーがあれば人はまずい方向に「超越」しない。ただ問題なのはその超越だの越境の感覚だのを資金援助している新興宗教のスタンスなのだ。どうでもいいような勲章とか権限にこだわり空手形みたいな科学アカデミーを新設しては反道徳主義を道徳に偽装してメディアに送り返すとなると、それはほんとに不合理な共産主義下の抑圧団体と変わらないため、ドグマを成り立たせてるものをまともに(科学的に)断じていく必要があるような気がする。その時、集団で一人一殺主義みたいなものを掲げてるカルトを何で国が野放しにしてるのか、今さらながら全く理解不能に思う。