この本/龍脈

養老孟司さんが評を書かれていたので評のみ読んでみた。それを「エンテレキー」と言おうと「ホロン」と言おうと、雑駁に言うと科学における妙なものの系譜みたいなものがあるのだろう、という気がする。解明出来てれば非合理主義でもないのだろうけど(あと、最初にそれを思いついた人には切実なものがあっただろうけど)。妙なものは雑な言い方で、要は脳の機能的な働きから切り離して概念的に抽出した時点で、哲学上の形成物とみなすしかないようなものが。それが大本の脳科学の還元主義で読み解けない、というところに、雑な宗教的プロセスとか妙なオペレーションとか警察社会のオブセッションとか、そういうものがいくつも積み重なっている気がする。

ホロンとかクオリアとかエンテレキーというのは、何となく「龍脈」というものと似ているような気がして、単に龍というものを想像上の超越した動物とみなしていると同時に概念化して捉えてる気もするのだ。仮に日本各地とアジア何ヶ国か旅行すれば、それは単に文様としてあるのだし、その時動く心的構造が超越的なものか内在的(地の利に馴染んでる)かは一概に決められないだろうと思う。(じっと見ていて不思議な気がする、とかいう場合単に心が動く程度の神秘主義は否定する必要もない)。
問題なのはそういうものに似た構成を内在して安定してる自我構成の中に見てそれを切り崩すことで、科学だの解剖学が興行みたいな感覚でそれをしたところで具体的な発見はなにももたらされないという気がする。

「でも、発見したかったんだ」というのがここ10年位の科学的趨勢というか気分であり、その気分のために兵器が駆動してたら恐ろしいことだと思う。Haarpはこれ本当に何なのか。読むほどに一市民が相手にすべきものじゃないなと思うのだが、何となく変なシンクタンクみたいなとこってこういうものの使用権限があれば使うような気がする。それで、一市民が法で守られないまま何かの放射実験の被害にあったりマインドコントロールされてしまうとして、それをどうにか文学的に含蓄のある話にするにはどうするかというようなことを、暖まりつつ考えていて、つくづくロジェ・カイヨワのような人は偉かったのじゃないかと思うのだ。科学と人心の中間にかかるものを清明に取り扱う文章において。