それぞれの論理水準

神経工学と大脳生理学、心理学のそれぞれが包括している理論も出来事も全く違い、ある抑圧的見解と圧政が動き出すまでは相互の違いはフロートして保たれていたのだが(例えば神経工学が心理学を疑似理論だと言って退ける理由はなかったのだが)、何故かある科学的(と誤解されている)ものの見方が優勢になるとその反応を元にヒエラルキーが発生して、それ以外の領域がバラバラに分断されてしまう、ということを、まさにケストラーは書いている訳だが、凄い、と思う。変な妄信を巡って人はそういう行動を確かに取るのだ。で、妄信と抑圧が人の知覚とか現実感をどのように変えるかということなのだけれども、例えばさかなクンさんのような人がクニマスみたいな魚を見つけたり10歳位の女の子が新星を観測したりすると、かたや自然科学の場というのはこういうことなのだ、つまり妄信を震源にして広がる非科学的な言動なんて差し置いて、思いがけないことが本当に起こってしまうものなのだ、と思う。そしてそのことは楽しい。やっぱり「自然の狡知」というのは嘘じゃないんだと。
それで、ヒ素を取り込んで生きてる生き物とか角になってる神経で気象を予測している鯨類が居るのは面白い。つまらないのは妙に秘境化された科学的研究が他の領域を食い荒らして回る、そういう見え透いた場だけなのだ。

機嫌がよくなったためバシュラールと「アリス・B・トクラスの料理読本」を探しだしてくる。クミン・シード入りの象形クッキーというものを焼く。(これはこの本のレシピじゃないけれど)。
えせ芸術家でなければ家庭料理は大上段に構えず、美味しそうに作り語るのだと感得する。粉飾の贅沢に騙されるもんじゃないですね(アリス・B・トクラスは素晴らしい)

ゲイとかどうとか関係なく、この本単にほしくて買ったのだが(科学知まがいとか症候とか新興宗教を媒体とした部数だけの本がばらまかれている状況では、二度と出ないタイプの本かと思う)、一度も中のレシピを再現した事がないままになってしまい勿体ない。ウィリアム・ジェイムスは神学と心理学について触れ、スタインは意識の流れの作家で、周りの芸術家はてんでバラバラなことをしながらひとまとまりにあらわれるとどうにかかたちが記録された、という成り行きがあり、いい感じだったのだと思うが、これはショバ代を宗教団体に払わないと考えてはいけない事になってる世界とは関係ない。脳科学の駄本に一行たりとも書き落とされていない感覚についてのお話が書かれているが、そういうものを認めるのは、創価学会とか統一協会のような気持ちの悪いカルトにとっては敗北なのだろう、と思う。結果教祖がどうしたこうしたとか誰の霊界での挙動がどうとかいう話ばかりになるとしたら、なんというか死ぬほど薄汚く、気持ちの悪い事だと思う。