映画と不審

今まできちんと映画館でみた映画のなかで一番くだらなく、勘弁してよと思ったのは一も二もなく「ダンサー・イン・ザ・ダーク」なのだが、まだキャスティングしてあるだけましであり(ビョークの歌はかっこいい)、なんというか映画という人の、人間性の浅薄さ痛さが丸出しのような景色を目の当たりにしてしまった(と、離人症的に捉えないと自我に障るかも)。それは現実であり、「トゥルーマン・ショー」みたいじゃなく損われているものがあって、しかもその毀損は徹底して無駄なのだ。それから色んな情勢のほうが些末な痛みを上回っているような時に、なんかもっと、題材にすべきものがあるんじゃないの、と思う。びっくりするのは、題材にされているリスクを取らされている人間が、果てしなく悪態をつき続ける事で、どんどん収拾がつかなくなるのだ。不当な目にあっている事は確かなんだから、筋道立てて抗議すればいいのに、と思う。

昨年イブ・クラインの本物を見る機会があって、昔建物の地下にある日本画の顔料やさんで瓶に入ったクラインの塗料を見て感動した事を思い出したのだけれども、その後クラインがフェイク・ドキュメンタリーに憤ってショック死したことを知り、すごーい味のある、面白い人生だと思う。そういうのが映画じゃないのか。そういう人がいてもいいのだ。映画をいう人間が、例えば「思考が外在する可能性」に寛容でない時、その人は恐らく凄い薄っぺらで退屈な映画のように現実を見ている。


大体神経工学は、個々の脳機能から作り出される現実感を越えた集合的なものや機械的なものを取り扱う気がして、ユングのような心理学者とパウリのような物理学者が一緒に本を出したことの意義も、そういうジャンルの到来に伴ったものじゃなかったかと思うのだが(このあたりはしっかり調べないと解らない)、とはいえ神経工学的に把握された現実に真実とか人間の集合的な本然があるとは到底思えない。一人ひとりが独立した脳の過程を持っており、それが自明なもの、思考が外在しないものとして取り扱われるからこそ守られる思考のパフォーマンスがあるんじゃないか、と思う(ケストラーが書いている、人間の脳がオーバードライブしないためのストッパーみたいなものが遺伝子的にある、という感じに近い)民俗学や宗教は当然そういう個別の脳機能を踏み越えたものを想定するだろうけれども、そういうものが何の影響ももたらさない人生のほうが普通だしクリアなもののような気がする。
仮に人間の脳が言語による伝達という比較的緩慢で、正当性のあるコミュニケーション方法を無視して、考えたことを即その人間の本心として看守されるような世界があるとしたら、まるで原始宗教の儀礼の場のように気味悪いものの気がする(言うまでもなくそれは負荷がかかったことにより現出しているもので、まっとうな社会的有様には結ばれていない)それから通信機器の速度減衰と同じように、不要に疎通が開かれることによってまともな伝達が妨げられる、という事が起きるのではないかと思う。