内的な私淑について

また茂木さんのツイッターが若干被って来ているような気がして(よくわかんないが単語レベルで似通ったことを、2つも3つも自分のとこに並べるのだ。ロンジンの時計とかバカとか淋しいがどうのこうのとか。以前早稲田の元講師にフルーツを持っていった後のクオリア日記フルーツ事件もそうなのだが、私は凄い金持ちから不当に色んなものを要求されるという成金の恥ずかしさ丸出しの目に遭ってる気がする。キモい)もうよくは解らないが、何をしたいのと思う。私の事好きなんだろうけど。
何というか途方に暮れてしまうのは、科学の構えでしたいこと、も、人文学の構えなり文学的な創造に属する事柄も、クオリアという言葉を融通無碍に使っている限り歯切れよく現れてこないところなのだ。少なくともそれが測定に神経工学的技術を要するのか、人間の精神と神学的マトリクス(或いは自然現象)の間に呼応関係をみるのか、呼応するとすればその時呼び起こされる感情にクオリアという目印をつけることの科学あるいは科学史的な意義は何か、くらいはっきりして欲しいと思う。そうでないと、取り得る科学的態度の一番基本的なものさえ一貫させることが出来なくなるのじゃないか、という気がする。
私はどうもこの緊張感のなさがいたたまれない。それが例えば原子力開発みたいなステイトメントの表明に責任を伴うことでも表れるようだと、科学者として殆ど体をなさないのではないか、と思う。

スーザン・ソンタグの日記は16から30までのものであり、そういえばそれくらいの時(最初のMacが家に来るまで)に紙ベースで日記を書いていた事を思い出し、何となく親しみを覚える。本を読む以外直接関わる事が明らかにない人に対して(しかも亡くなった人なので)私淑という感覚を覚えるのはおかしいかも知れないが、何となくそういう感情。

緊張感がない、と書いたら早速茂木さんは加圧と緊張感について書いた。
素朴に私自身に圧力かけるのやめて欲しいのよね、と思う。外す時間が無駄なのよね。それから洗脳に量子論が関わってるとして、そも人が何故人をコントロールしたがるのか、という人道上の問題と、量子論という専門性の高い学問の問題は別々のところにある。
話す相手がいないのか、と思う。クオリアの問題系自体は確かに凄く面白いのでもっと掘り下げられるといいですね。