女優が妻であることの自我縮小感

階段を踏みながら、そういう感覚はほんとのところ有るだろうし大きいのじゃないかと思う。しかもそれが解りやすいスノビスムなどに回収出来ず、何か陰湿な畏れと違和感に転位してしまい、そのまま身体症状(ヒステリー、男性でも)になるような事が。
以下それについて書いても、別にそういう方とコミュニケーションする気はあまりなく、それが苦しいなら何かの精神療法的手段を経て正当に解消した方がよい気がする。
…実際犬が父親の家庭の貞淑な妻(?)という役割を演じる女優というのは端的に何が何だか解らない。女優だけどいいとかいやとか素敵とか言い難い、何か違和感があって、もしそういう役を買って出る妻に下らない事三倍返し位で対応しようとしたら、はた目からも相当下らない人物にならないと仕方ないだろうと思う。お金は入ってくる(露出してるし解りやすい遊興にコネがあるので)。でもその事で賄い切れないひび割れた時空間が、その人の回りに広がってるのだろうと想像する。それで財源として確実な宗教団体と組んでも、別に尊敬はされないとなると、この期に及んでなんだかちょっと気の毒になってしまった。
作家や思想家には作家論がある。けど流通とか症候群そのものに何の論旨も見られない。そうして単に流通を目的として流通の為に言い捨てられてたことは、多分後で回顧もしにくい。 やっぱり本を読んで凄いねぇと思えば、それについて帰結のある事がそこそこ言えてしまうし書けてしまうものだと思うのだが、バブルが崩壊したけれど文筆で出来るだけ安直に食べて行きたいので新興宗教の財源を当てにした一群の文筆家が居る、と言われた場合、ふーん山師なんだねの一言で終わってしまうじゃないと思う。それから、80年代の文化人のように感性の解放と消費の肯定を今俺もやりたいと言われたとして、なんだかそれはねちねちしてて下衆なので私に構ってこないでね、としか言えない。そしてそういう思想家(?)であるところの茂木さんとかクリエイターとしての糸井さんに、何の論旨もない気がする。

そうこう言っているうちに「風の旅人」が休刊になり、以前何度か言及した事もあり友人が編集部でバイトしていて辞めた事もあるため、色々と考えさせられる。何というか無理やり流通してるどうでもよい本の貧しさと、個々の写真家の方の作品の取り替えのきかなさみたいな事。
陰謀論でなく、特定宗派がスポンサーの流通経路なりオピニオン紙のボリュームが、普通の出版物にとって愚にもつかないものなんじゃないか、と思う。
茂木さんも内田樹先生も「風の旅人」に寄稿しており、それは「売れる識者」だったからかも知れないが、今となっては何だか空疎な煽りより、震災が起きてすぐ被災地の状況を写真に撮ったり、現地の試みを掲載する事のほうが余程、パブリックな識者の方法としてまともなんじゃないかという気がする(茂木さんなんて今ひたすら暴対法に対する予防線めいた事ばかり書いている訳だし。つーっとイヤな気分になるのだけど、そういう筋の人の思惑+洗脳ってエグいよなと思うと共に、でも現実的に本人がイヤな感じだと洗脳の如何にかかわらず避けられるのではと思う。きな臭いというか私自身はひとっつも後ろ暗い事ないので、警察が早いとこ芸能界の色んなもの突いてくれるといいのだが)。
…正直な所、変な人どもの増強を抜かしたら、何がクオリアで、何を根拠に呪いを振りかざした人たちなのかさっぱり訳が解らないという気がし、中岡俊哉の心霊エッセイが中心で妙に無感動なのと同じように、この人たちも相当無感動な喧伝屋に過ぎない気がするけどねぇと思う。
新興宗教絡みの事件は皆そうだが、初めにあんまり安手の奇跡なり脅しを見せ付けるからいけないのだ。 写真について全く素人だが愛してはおり、また方法も感じていて、ベンヤミンが書いたようなことやアジェの写真にあるような日常のアクチュアリティというのは本当の事なのだと思う(撮っておくことで、何をする町かが解ったりもする)。
企画先行で抑圧団体と組む人は、そういった在り方をそもそも見ることがないだろうと思う。
一般論(というか殆ど症候論)だが、思春期以降に発症してしまった男の人格障害なんて、その人がいくら洗脳技術を駆使しようが分かってあげられるはずもないじゃないと思う。類型的かつつまらない話だ。
何か人と違う発見をする科学者は確かにかっこいい(というのは、マニエリスムの中で同じ類型の強化をしてる中で破調が生じた時、それが目新しいとかっこよく見えるだけの事で、構図が解った瞬間うざい。ありゃしかも科学知の話じゃなさすぎ。モナカの皮についての神話学だった)存在だが、まず話がおかしいのは哲学と神経工学の二段構えになっており、後者を突き詰めても前者の核心を科学的には言い表わせない、というのがひとまずの結論になってる研究領域(クオリア理論)に、何故か退官間近の解剖学者が出てきたとこなのだ。
クオリアのひとまずの結論というのは、結局脳の機能面の測定で心の構成は解らない(だから、「心の哲学」というものに滞留する)という一言に集約出来てしまうんだが、方法論の「脳の機能面の測定」の段階で、不正に個人の心身環境にアクセスしたり持ち出したりしてませんか、と思う。感覚質みたいなあいまいなものの研究でなくても、何か変な人体実験まがいの事に手を染めて良心の呵責を感じない医者というのも、結構ありふれてるのかも知れないが。
人道がどうというお話は関係なく、永井明さんというエッセイストの方の本が身の周りで流行ったことがあった(栗原はるみさんが流行ったのと同じような感覚で)。医療ジャーナリストの方だったのだが、とても面白かった。当たり前だけど医療を汚職と利権と医者の高飛車なシニスムからだけしか語れなくなって、宗教団体が利権を一本化して一括管理し、異論を差し挟もうとしたら人体実験とか暴力団の恫喝で消されたり精神病呼ばわりされてしまう世の中だとしたら全く意味不明だよねと思う(五大疾病認定も突き詰めればそういう事なのだが)。いきなりワンストップでそういう流れに持ってかれてえっと思うと薬理で抑えられたりする世の中だとしたらみっともないし(頭痛薬さえ飲まないのになんの為の薬理)、警察はどうか知らないけど司法はそっちを潰すべきでしょと思う。
単純に科学理論の核心の部分をカルトに売り渡さないでよと思う。
その大学で文転した人に、理系がタイトなので文転するバッファがあるときいたのだが、感覚質の研究もそういうもので、なおかつ文学者(特に国文学者)をものすごく馬鹿にすると、似非科学者の態度が完成する。いや無理だし、としか言えない。

ようやっと実務と民俗学があまり矛盾しなくなりそうな気配があり(暴力団私ほんと関係ないっすから)。資格は本当に一契機でしかないが、福島の民芸品の保全に何か役立つことがあったらかかわりたいと思う。
とりあえず前向きな現在性というのは最低限踏まえようと思いつつ。
シャルロット・ペリアンの回顧展が大変楽しみ。後学のため(確実に役立つので)見にゆかなきゃ…。。。

アホとか無理な感じの現象のためうざいので、CIAの洗脳技術で遺伝子構造をぐりとぐらとかと同じにしてくれとCIAに頼む変な夢を見る。

どうでもよいのだがパクりの癖に私当てに婚活みたいな不気味な動きを取る奴は何なのだろうか(絵画評も写真評も見るとこない)。普通かなりの年齢の癖に免許持ってなかったり普通の仕事に就けないと、その事を苦痛に思うものだと思うのだが。
あまりこういう言い方はしたくないのだけど、本来なら自殺してる位人の基本的な部分がおかしい奴が何で無理して生きてるのかなぁと思う(80%までパクりと焼き直しの論説が罷り通る事がよく解らない。「風の旅人」も、何だかそういう流れに妙に寛容だった事が災いしたんじゃないだろうか)。余計なお世話かもしれないのだが、あまり人並みの幸福をのぞまない方がいいですよ、と思う。そういう人特有の引け目みたいなものが移るとイヤなので関わらないのは当然なのだが、ちょっとこちらが引用しているものについて言及されたりするだけでも大迷惑。
車外出の可能性がある仕事、とかそういうものがはなから思いつかないんだろうと思う。その人の作品は陳腐で評論もつまらない感じなので(根暗な感じだし)、存在もろとも全部ゴミになるのだろうと確信する。そういうのに絡まれること自体犯罪なのだが。免許を取るお金はないのだろうが、戸塚ヨットスクールのようなものに入れ、と思う。

ウージェーヌ・アジェの写真と来歴を読むと今写真を撮るときの方法と地続きで、尚且つ細々した部分の非現実性がとてもよくわかる感じねと思う。8000枚撮りためたというのは素敵な話。街中の写真を撮っておかないと、景色どころか街自体変質してしまうのだという事を痛切に感じる。
     ♪
考えてみればベンヤミンを2002年から2年位だけ限定で読もうと思っていたのだった(ユダヤ思想はよくわから
ないがやっぱり怖いので)。結局ナチスが気詰まりだった人としてのベンヤミンにシンパシーをずっと感じ
続けていたのだが、気詰まりを感じる人へのシンパシーで気詰まりが解消することは、確かにないのかも。
私恐らく袋小路が大嫌い。 それにしても何故日本の文学者という人たちは激怒しないのか?