備忘1/2

お賽銭 15円
お守り 500円

・・・バックグラウンドで縁を結ぶ必要はないので(むしろ変な奴は攻撃していい。。。というのはいい過ぎかもしれないけれど知らぬ間に結ばれた縁が心因反応に結びつくとかそんな邪悪な縁結びは怖いし、素で冷静に過ごしている時の自分がほんとなので。。)
駐車時や長距離走行時に監視してくれるようお願いする。
今年はとりあえず日帰りでも長距離旅行に車で行こう。

2年前の岡山はかなり遠い場所だったのだなと思うが(免許合宿だった)、運転が出来るようになり本当に良かったという気がする。そのうち単に旅行で行って見て回りたい。 ♪
セルフメディケーションというか、心理的整合性を取るのは難しい事ではないのだが、それが追いつかない位心因反応を取りたい人たちが居て脳科学とか神経工学の技術を濫用している場合、どこかで一旦科学的な結論を出すべきなのでは??と思う。そうしないとノーベル賞どころかおかしい感じの医者だと思われるのでは。

どう「ポストモダン」じゃないのか。
・・・多分「感情」と「道具」に分かれているのだと思う。近代的自我の否定とか
そういうお話でもなく。ただ何らかのきっかけがあって人間(ここでの人間は
ヒューマニスムとも何かの傾向とも関係がない)そうじゃなかったのでは、と
気づかされるのは、それがいい出来事であれ悪い出来事であれ事後的なのだろうと
思う。
(その時パッと「人間らしい行為があった」と、コマ落ちみたいに気づかされるの
ではないかと想像する)。
ただ未だに、「感情」が脳からどう生まれたかについて、科学的に納得の行く回答を
出した科学者など居ないし、それは今後(テクネーのみが発達したとしても)恐らく
回答なんか出ず、そのまま感情のみが特権化されて増幅されるのだ(メディアなどを
使って)。その増幅が特定の国のインターナルな印象と結びついて排斥の対象になった
りするのは、科学的におかしい話(というのも、何の数理的な収斂点ももたない)である
だけでなく、歴史的にもなんか気まずい感じがする。
その事に全く無自覚なのは文学者としても3流の気がし、感覚質を「今」問う事に対して
肉離れみたいに気分のよくない印象を持つ。もう少し他のやり方があるだろうし、そこで
その事後的な人間の含蓄みたいなものがあり得るのじゃないか、という気がする。

スラヴォイ・ジジェクが「ブレードランナー」について、レイチェルの人造人間としてではない記憶と内面が投影として構成されたものに過ぎない事に気付く(気付かない?)過程について、みたいなお話を書いていた気がするのだが、ロボットでない人には単純に自己同一性の根拠になっている記憶がある。でも神経工学的なオペレーションはその自己同一性を繋ぎ変えるか組み直す事を器官に直接強いる訳で、しかもその組み換えの結果、つまるところ人間の感覚とは何なのか、について解答なんて出ていない。そうこうしているうちにしょうもないオペレーションは苛立って自分の感情的行為を特権化しようとする。それが象徴的素材と結びつかない時は滑稽であり、被験者は単純な自分の記憶に戻ろうとするか呆れてオペレーションに対する悪印象を特定の国のやり方に結び付けて謗ろうとする(あるいは自殺しちゃってるのか)。悪いことにその手口が印象論でなく、本当に存在しているとなると悪感情を(人間的に)宥和の感覚に結びつけるにも慎重にならないといけない(単なる記憶で何が不足だったのか)

こんな事自分が単に生きていることからしてみれば、大変どうでもよいのですが。