情動があって動いていくときに基準点を2つ置く。内部で展開されてるものが外側にもあるときにその基準点の上に身体の軸が乗るようにして、視ながら中心を決めていくのだが、あるタイミングで鈴の音を聴く。
                          ♪
 必要があってプランボードを整理したりしつつ、図解の意図が解りやすいことを最優先させようなどと思う。
(どの年代の人がどう見ても提案意図がスッと解るというか)。収納計画もほんと大切。
シャルロット・ペリアンの図録をパラパラ見ていると、商工省は内需拡大の為に東北の産業を押して軍部は
当然軍事需要押し、みたいな、家具だけで考えた事も無かった事が解り、何か色々と考えさせられる。
(家具に民芸を取り込んだり素朴派の絵をプリントしたり。そういう感じと民族誌の融合みたいな感じ。フォルム
はモダン)。

                        ♪
病理ではないが年末、嵐の名前を誰一人知らなかった。

そういう現実の遠さをどうにか調整して行きたいと思う。

                      ♪
公共圏や商圏と単なる転移共同体の境目がめちゃくちゃだから同時に同じワーディングだったり
するんだろうかと思うと、よくよく束化しやすい人たちがつっかえてるんだなぁ、というような事を
思う。そういうのが雪崩を打って戦争に持ち込んだんじゃなかったっけと思うと、ファシズムの原型的
な在り方ってそちらなのだが。
(以下独り言ですが、どれだけその書き出しを重宝しているんですか、というより、街を徘徊する奇妙な
妖怪をどれだけ流用してるんですか、と思う。「それ何のことでしたっけ」「そもそも悪い意味で使われている
んですか?」くらいな現実感でしか生きていないのだが、その書き出しの真似で妖怪呼ばわりされたもののその
後をちゃんと追ってあげなければいけないような気もするのだが)。

                     ♪
シャルロット・ペリアンがユニットバスの原型に近いらしきものを作ったと知りびっくり。

この本欲しい。が、高い
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4787233092.html


・・・全く何の話だよ、と思っているのが、以前も書いた東大表象文化の件なのだが、田中先生は今後私の言動を
一切なぞらなくていいですよと思う。ベンヤミンを読むのに邪魔すぎるし何だか気分が悪くなるのだが。
mixiの日記を併用しており、「1月も10日過ぎると、年明けた、という気持ちになるが、つくづく昨年の3月の
震災からの感覚は大変なものだったなという気がする。被災地の方たちは尚
のことだろうけど。
もう昔みたいに本が読めればあんまり贅沢言うこともないし、一体何のバブルを
肩代わりさせられているのか全く不明。一回下らないものとして死んだはずの80
年代的なものが甦りすぎなんじゃないか、という事をつらつら思う。2012年1月12日 22:52 」・・・と書いたらば
数分後に「震災直後半年くらいならまだしも、地金が出るのか何なのか、言動がおかしくなってしまう人をたまに見かける。お大事に。」って、悪いが何でこちらの言動を逐一追っかけてくるのか。震災も大変な事だったけどそれ以上に
何か陰気な気分になるのよねという気がする。
何かねちねちと文書作成や論理展開能力と立場と外見の兼ね合いみたいなものを監視してるのだとすれば、
表象文化論化はつくづくジェンダーバイアス(と、反動形成で形だけフェミニストだの何だの煩いだけ
の人とか。普通に淡々と仕事してるとまず居ない人種なので、そういう意味では「フェミニスト」確かに
めんどくさいという気がする)きついとこだよねという気がする。面倒なので私のすっぴんの
容姿をさらして置く。

・・・あんまり外見の事を書くのは嫌なのだが、普通に生きて仕事して、なおかつ本読んでするときは化粧ぐらい
して・・・というのを、個人個人のスタンスでするのがそんなに問題なんですかね、と思う。
みっともないわ整形だわ発想は貧困だわという人間に付きまとわれるのは耐え切れないのだが。
駒場アゴなしブス女性もそうなのだが、奇矯で煮詰ったノリの人たちが一杯居そうなので、実際に
お会いするのは止めておきました。割と薄っぺらなエステートとか嫌いなのです)
・・・私は市井でベンヤミンを読みつつ仕事してる単なる個人であり、バシュラールも園芸も元々好きなもの
なので今後言及する事はあるだろうが、それは一切駒場と関係ないと思う。
かつて業界人と言われてた人たちが、自分のオーダーに合いそうな女の子にどういう尤もらしい話を
あてがって商業ベースに乗せようとしてるのか解らないのだが、そもそも単体でものを作る気力がそこまで枯渇
しているのだなぁという感覚しか沸かない。神秘主義にはまってカルトを持ち上げたりした人たちも
含めて、つくづくとても不吉で、下らない潮流が死なずに残っているのだなぁという気がする。
                 ♪
人間は幾ら深刻な本を読んでいようが、文学だの宗教だのの為に死んだり悲観する必要はないと思って
おり、呪いというものについては思い浮かべる必要もないような気がする。
そこらへんとち狂った人にずっとアクセスされ続けるのはうっとおしい。暗くなりそうだし体調が悪くなる、という
気がする。
そういう見せ掛けの深刻さの政治的強度が、ここに来て大阪の行政絡みで問われているのじゃないか、と
思う。

・・・端的に言って、超監視社会とか新興宗教は美容に悪いんじゃないか、
という気がする。とりあえず電磁波がどうのこうの、というお話は実証
出来ないので捨てるとしても、シュールな(?)体験が度重なるせいで、右目
と左目の調子が微妙に狂ってしまった(コンタクトを片目しか入れていない
という事もあるが)。あと、噛み合わせがここ数年でとてもずれ、それに伴って
頭から頬にかけてのラインがデコボコしてるなと思う(これ、もし本当に洗脳
のようなプロセスのせいでそうなったとしたら、ほんと碌でもないなと思う)。
・・・以前は、エステのトライアルに行ってリフトアップしてもらったりする事も
あったのだが、そういう事さえよく訳の解らないトラップにはまると監視されて
しまったりするのだろうか。怖い。
                ♪
ジェンダーバイアスに特に囚われてない都市空間ってあるような気がし、公園のような
所はみんなそうだなぁという事を思う。