たまちゃん

・・・と(劇団でちゃんと活躍してそうでひと安心)、グローブ座に「卒塔婆小町」(藤原竜也の)
見に行った事を不意に思い出した。
 みんな独自の世界を持っていたので、迷惑掛けるといけないという気がしてるが元気かなと
いう事を思う。
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・・・いわゆるフェミニスムではないし、幻想性を帯びた話でもないのだが、単に女である事で折れも
せず負けも勝ちもせず崩されたり壊れたり殺されたり死んだりもせず、父性とかグノーシス的な超越性は
絵空事か書割で、かといってグダグダもせず生き延びる、時間も一切無駄にならず身体性について
も精神性についても語らない(じゃあ何について語るのか。否定神学?)、みたいな謎の素材感について
色々思い巡らすのだがそれは何なのか。精神分析的に知りたい。よく分からない。(それはそれで何かの
忌避的な感情なのか)。でもチェーホフの戯曲とか単に一枚の布を広げてアイロン当てたりとか、近所の
公園でボーっとするのは、予めそういう感情に与えられてる景色じゃないんだろうか。
(ここまで書いて何の気なしに、「公園」とかワーディングが他のブログと被っても、私は基本的に
何か書くときひとのものは見ないのと、前職場の方に書きかけたメールで「個人情報」と書いたものが
引っ張られてるので大変気分が悪くなる)。

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統合失調について、要は感覚の組成をバッと高止まりにもって行って(普通とちょっと違う意識状態を
強いた上で)、バーンと落っことせば結構簡単に発症するものじゃないのかなぁ、みたいな事を話した
が、何かねと思う。17年前の事件以降に、もっと淡々としたかたちでそういった精神的なスケールアウト
に対して、緻密に言語化されてもよかったのじゃないか。それをしなかった自分も怠慢という気がする。
(しっかり論理的に構成して社会に埋め込むことが出来れば、そういう仕組みを利用して病ませあうとか
強拍を帯びた宗教だけが姑息に勝ち上がるという事もないような気がするのだが)。
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怠慢な感じをどうにかまともにクリアしたいと思ったとき、ある種の父祖の手口ではあるんだが
そんなもの一切自分に作用しなかったように振舞う必要がある、そういうものがある気がする。

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ごく取り返しがつく年齢のときに澁澤龍彦の書いている内容のみ辿るだけでよかったというか、矢川澄子
さん絡みで出た書籍で色々なお話を読んで、ある意味教養乞食みたいな人だったのかなぁというような
事を思う(瑣末で形式的に人を損ねる事が習い性のような。近代文学の他の同人はもっと根拠のある
感覚や感情に自分の書いたものを繋げたように見えるのだが)。
 そういうトリヴィアルなお話の残骸がしっかり流れ着いている海辺というのはあるにせよ、そこで掬い
あげられるものはやっぱりトリヴィアルなお話の残骸としか言えず、それでもその瑣末な話を次々入手
したがる成熟忌避っぽい類型があるのだろうなと思え失笑。とっちゃんぼうやの悲しさ。

病者特有の(ニーチェもか)性的倒錯の多様性って重たーいテーマだなと思う。それこそポストモダン以降なのか単なる身体介護問題に過ぎなくなる可能性がある訳で、下手をすると愛着なり神学的な次元さえも新興宗教の手口に媒介されていたりして。

お仕事の準備をしつつ、さすがに教養乞食なのはご本人ではなかっただろうと思い、暗黒のメルヘンは面白いアンソロジーだったなぁと思いかえす。
新興宗教の財源が正当に政治活用されるだけならいいのだが(本当はよくないけど)、哲学なり神学を一元管理するのと、女性の分配みたいなところで活躍しすぎてるとなると何だかちょっと過剰だなぁと思え、それと共にこの団体特有の、教祖から分けて貰う女性に対する微妙な忌避感情とか(俺はそいつパスみたいな)、でも女性にあぶれると格好つかないので媚びに行く感じとか凄く泣けるなと思う。人間関係の痛さからだけ社会性が再生産されるような。異物口に入れたり毛が抜けたりするのも何となく分かる気がする。。。
でもそういう自己決定に不全感を抱いたとしても、心が折れそうになって他人の私的領域を侵犯とか流石に病理的行動に過ぎるように思え(侵犯されるストレスで構成されにくくなるものもあるし)、何かヒト科の生き物のする事と違うよねという気がする。かといって犬とかも人間の倒錯スケールで語られたら迷惑なんじゃないかと思うが。

猫に思いいれも飼ったこともないのだが、とりあえず汚物を口に入れる癖のない生き物と知ってかなり好感。