幻想?/揚げ物をもらう
「共同幻想論」も含めてかなり内省してしまう。
幻想的な素材で20代まで絶対に持ち越したくない、と思っていたものが、
岸田理生と寺山修司と澁澤龍彦だった気がする。要は6,70年代だから
意味のあった形式のような気もしていて(アングラ的なものがという意味)
、それを何で読んでるのかもよく分からず(それにしても本読むこと自体
に不自由感はなかったので、今よりましなのだけれど)、これは「幻想」
といっても私の幻想じゃないだろうというような気がしていた。ラカン
的な時空の差異化と言語に基づく幻想の発生とも違っているし、何か降
って沸いたようなインスピレーションはそこまで対人関係とか身体性の
嫌さに基づいて居なかったような気もする(シアトリカルな暗さみたい
なものを感じており、大体小劇団に居た友人はそこまで煮詰っても無か
ったので余計そう感じていたのかも知れないが)。
・・・身体言語とか肉体言語とか言われてるようなものが、脳の何に起因
しててどう身体のアクションを通じて外化するのか、みたいな事を実際
に器官としての脳にあたって確認したら相当気味悪い事になる筈であり、
下手するとアルトーみたいになるか全く先入観なくそういう目に遭ったら
やっぱり心身不調の原因になる気がするのだが、どうもある種の集団性に
任せてカルトがそういう分野の研究をしてるんではないかという気がする。
そこに心身鍛錬とか教化に対する郷愁が絡んでるのが、何となくありがち
な新左翼的妄念なんじゃないだろうか(それ科学的根拠や医学的メリットは
あるのかどうかと思う。下手するとそういうものが無いまま、見切り発車で
使われていて、尚且つ特定のレイヤに置かれた自我構造を弱らせることが
目的化していたら屑だと思うのだが)。
迷惑というか、そんなもの普通の社会的な人間関係の中で無理押しすべきじゃ
ないでしょ、という気がする(そういう感覚を断っとかないと、言語だったら言
語に基づく自律的な幻想の肌理が排除されてしまう)。こうして言葉にしてみる
と何か単純なのだが、確かに言い方を間違えると突拍子もない印象になるかも
知れないという気がする。
その点、ホリスティックセラピーとかは心身状況がネガティヴな方に地すべりし
ないように、押さえになる理論を持っている(恐らくイメジャリーのようなイメージ
療法もその一環)。
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疎通の回路が変だという事を除いて考えても、ある種の心身鍛錬しながら精神
論を述べる人たちが不愉快なのは、多分上に書いたような理由による。要は身体
みたいに脳を鍛える成果を他人の器官で調べたい、みたいな事を思っていたら
それは病気だと思うし、生半な状態でそれに取り組んでる人の周りには病態みたい
なものが蓄積されるはずだという気がする。
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にしてもほんとに、よく分からないのは幾つかだけで。
・・・近所でお店の閉店間際に買い物をしていたら、よかったら食べて、と
コロッケとか春巻きとかたくさん頂く。ありがとうございます^^。
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言語だったら言語に基づく個別の幻想の肌理があり、それは言語のうちでは他と取り
交わすことが出来、内面の場所とか土地のようなものは無限に続いていて、時空は
やっぱりどの個体に対しても一回性に満ちたものなのだ、というのをショートサー
キットさせて支配的な体系に取り込むもの。と、グロと昆虫採集っぽい性格の男。