基盤

ある基盤があって何処まで自分の内在として取り戻しているか、という事。そこに並び出る現象を本当は自発的に選ぶ事もコントロールする事も出来る。

スポイルされた子供、という概念、苦手な話だなという気がする。心因反応がそういう在り方と結びついた人特有の手口があって、そのまま他人だのクリエイティヴィティに固執すると何処まで空虚かという事なのだが(手帳が68種類って正にそういう事なのだが)。

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自分の身体のサイズに合ったブランコを漕ぐだけの場所、というと広いのか狭いのかよく分からない。地面に足が摺らない
ように座面を動かすのだが、思ったより縦の動きにも見えていた。長じて、ブランコの座面は乾いていて軽かったし、鎖は
錆で丸くなっており、周りの空気は何か具体性があったと回想する。急に世界が流れ落ちないのは、技量のせいでもあると感じていた。実際ブランコのある場所は夾竹桃の生垣や砂場、遠くに見える給水塔などに取り囲まれており、それらがうねりながら世界から消失しないように乗り物を漕ぐのは、バランスのいい出来事ではないだろうか。
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現象的な意識の描写というものがあるとして、それは言語とかありがちな幼時のかたち(言葉が分からない状態から学習
して時空を分節する)に限定されるのだろうか。そういうシンプルな事さえ全く分からない。
こういう事柄をある程度凝縮して、抽象性とそれを内包する自分の神経のバランスを測りながら暮らしてゆくには、端的に
自律してる必要があるし、そのためには普通人が干渉されない程度干渉されないで居る権利がある(現象を内在させる権限)。
 中井正一があるフォーメーションとか、色彩映画みたいなものについて書いていたことを思い出す。
これが(これも)図書館論なのだが、機械とか機構に対する両義的な信頼感に基づいており、ある種のフォーメーションの問題なのだ。http://www.aozora.gr.jp/cards/001166/files/46275_28713.html