シンクロニシティ

ゲーリングスとライプニッツは、心と身体の整合性は経験的自然の外部にある原理の、神の
行為とみなしている。また他方では、心と身体との間の因果関係という仮説は、経験に適合させる
ことが困難であるという結論になっていく。すなわち、心的な出来事を生じさせる身体的過程が
存在するか、それとも物質を組織する先在的な心が存在するかのどちらかということになる。第一
の場合、科学的過程がどうして心的過程をずっと産み出し続けるのかが理解できないし、第二の場合
だと非物質的な心がどうして物質に運動を起こさせ続けるのであろうか。ライプニッツの予定調和の
ような類のものを考える必要はない。これらは絶対的なものであらねばならないだろうし、またそれ自身、
宇宙的な対応や共感のなかに、むしろショーペンハウエルの言う同一緯度上に存在する時間点における
意味のある偶然の一致のように、それ自身を顕すものであろう。共時性の原理は心−身問題を明晰に
するのを助けるような性質を持っている。特に、それは無因果的秩序、というより意味のある秩序
性であって、それは心身平行説に光を投げかけることが出来る」(C・G・ユング共時性:非因果的連関の原理」)

・・・この本と「変容の象徴」は素晴らしい(原型論のユングはよくわからない)。
「心的な出来事を生じさせる身体的過程」が強弁の場合どうなるのか。そういうものを手中にしていると言い張る
キモ男が自己意識を動かそうとした時、当然避けるのではないかという気に。
                 ♪
あやしい本なのだが上記のような考え方自体は心身問題について考える時の基本である。その上で、身体と心理の架橋をよくするために自分にあったワークをおくことが出来る訳だが、心身問題が安直に心脳問題と名付けられたあと、身体論を振りかざす奴とか出てくるのはどうなのか。脳も筋肉みたいに鍛えられる、という系列のおかしさ。