メモ

bobbinsmall2012-04-15

信念体系と、認知的な傾向と、その結果起きる現象について、普通の生活のなかで主体は不可知論的な素材を引きつれて移動していていい訳だが、動物や機械はそういう不可知論的な構成をよしとしないのではないか、という気がする。だから一様に(例えば気候について)群化した見解で色々言うのだが気持ち悪い。
                          ♪
なぜかPixiesの「Monkey gone to heaven」を聴きながらもう一度「子午線」を読み直す。

・・・汚物をフレーム外に置き脳科学と陰謀、異嗜食とカルトは自分と全く関係ないものとしておいといて通信教育でいい
のでやっぱりヴォーグの講師資格だけ取ろうか、と思う。

げ、自分の人生から思考盗聴(?)と新興宗教のみ完璧に無駄、という気に。汚物を汚物として増強してるシステムをしっかり見極めたいと思う次第。

                         ♪
 ベンヤミン(について言及するとき、特に外部の参照項目を持たない)もそうだが石鹸の商標についての感覚が
面白いという気に。
 いい時間に「証人会」の方が来たので丁重にお引取り願い、無神論者であることが価値観に結びつく領域(素な
感じ)もこの世にはある筈だと思う。

この場所にクリアランスがある、ということを直感的にわかるだけで、おそらくまともに食べてゆけるだろうし、情動が生体を傷つけるようにじたばたしないでも済むという、大きい事実。(心理的様相として)。 ♪
日本の俗流クオリア理論、といういわれ方をしているが、実際仏教系カルトをあてにして焼直して何が分かったのかという気分に。同時に公害的な生存様式と大手メディアの結びつきが個人の感覚を汚染しないように要請するのは結構大切な事のようにも思う(いくら排外的と思われようが、私は韓国人とカルトが嫌いで迷惑なのだ。その中でヒステリー状態のまま汚物に塗れる事のなにが文学のパースペクティヴに結びついているのか不明。分かりやすくイタい接待の気配だけ感じる)。