思弁的な極

歩きながら割とそういうものを想定する、と思う。プラトニスムとも違う。

数日考えていた事と合わない気がし、色々考えが拡散するような気もして結局ポロック展を見にいかない。手元の「創造と狂気」にポロックが20代の時描いたスケッチ風の絵があり、それは強迫的なアウトサイダーアートみたいな絵で通常のポロックの絵と全く違うのだが、当たり前の事かも知れないがメディウムがあり都度考えられた事が写し取られているのだろうなという気がする(それで、ポロックがそんなものを描いていた時、無防備に共時的な模倣関係にあったりするような他のメディウムなんて無かったのじゃないか。アクション・ペインティングが始まった後も、事態は同じじゃなかったか。無意識に、ほんとは形式なんてそんなものだと思っている自分がいる)

無防備に共時的な模倣関係、とさえ言えない。単に「何パクってるんだ」としか言えないような系。
もし神経の入出力を遠隔で操作出来るとなると、病跡学的な考え方の基盤も書き換えられる事になる。
個人が病むのでなく外在的な要因から思考が量化されて病まされるという事があるとして、ほんとはもっと含蓄のある見解に結びついていていい気がする。

     ♪
やっぱり見に行ったほうが良かったか・・・という気になりつつ、でもポロックよく分からない気もする(ロスコが継続
的に好きな事に比べれば)。初めて見た時も自我拡散みたいな感覚があったのではなかったか(それで却って、あんな
絵の具の流れみたいなものに絡め取られる感じというか)。白髪一雄の何か、動画を見た時の記憶とごっちゃになって
いる。ただ、こうして色々な固有名が思い出される、という事についての自戒や、ある固有名の系列に捉えられると
そこから時間が全然動かないような感じに対する自戒でもあるのだった。
(もう一つだけ固有名にかまけて書くと、ポロックが日本に紹介されたのは読売アンデパンダンが最初だという。
当然本で読んだだけのその場の、アクション・ペインティングやハプニングみたいな系列の出来事のうち、未だに
サブカルみたいな形で重んじられているものがあるような気がするのだが、今普通に生活していて全くそれらを
重要だとも、好きだとも思えない。何だか媒質感が感じ取れないのだ)。
    ♪
抽象化は抽象化、共時性共時性で考える事も深化させる事も出来るはずだが、そんなものよりメディアだったらメディアの要請でナショナル・アイデンティティーを攻撃する方が重要視されており、それは一回そんな筋から資金提供受けるとどんな言い方でも精査されず流通する、ほんとは感覚質なんてどうでもよい、となると何か分かりやすく気持ち悪い。

仕事場までの景色に丸い給水タンクがいくつか見えるが、一基錆付いてておかしい感じ。
東電10%値上げ!!
・・・なんていう事のない照明手法なのだと思うが、マンションの外壁にとりついている丸い間接光のブラケット
が好きで、ああ日食みたいだなぁと思いながら眺める。