キリスト教でも/ブレンターノ

「新約」はつくづく、ギリシャ語で書かれた27の文書群なのだ、という事を思う。
「ある時、わたしたちが、祈りの場にいく途中、占いの霊につかれた女奴隷に出会った。彼女は占いをして、その主人たちに多くの利益を得させていた者である。この女が、パウロやわたしたちのあとを追ってきては、この人たちは、いと高き神の僕たちで、あなたがたに救いの道を伝えるかただと叫び出すのであった。そしてそんなことを幾日間も続けていた。パウロは困り果てて、その霊にむかい「イエス・キリストの名によって命じる。その女から出て行け」と言った。するとその瞬間に霊が女から出て行った」(「使従行伝16-18」)

生半にオカルティックな物質性に拘る人が、神託を下すと見せかけてその実何がなんだか理解出来ない、というのは、だから大昔から連綿そうであり、キリスト教帰属意識を持たなくても一時期聖書を使って何か情動をやりくりした事のある人にとってこういう解釈は割とありがちなのだ、という事を思う。実際前の変な女性がいちいちメンターのように振る舞う意味も、霊感商法のようなものも理解しにくい。が、超越的な人にとってはいんちきを言い当てられては困るので、宗派性をたてに逆ギレしてストーカーしたりする(きちがいのおばさんに付きまとわれては困るという事を、普通解るんじゃないかと思うのだが)。

となると、漫画のように「笑うとこ」なのだが、本人には死活問題なんだろうと思うと気分がよくない。

ヨハネの黙示録」にはハルマゲドンという場所の事が書かれているが、それは十七年前の通勤時間帯の電車の中じゃなかったのだ。
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日本ではマイナー宗教であるかのように見えるキリスト教だが、「志向性」のブレンターノもカトリックだし、結局「意識的な方向を
指し示す」ための重要なバックアップになってる事は疑いようがない。にもかかわらずテクネーだけでヒトの生体(心身
問題であれ、神経工学であれ)から意識の与件を取り出すというのはどういうことなのか。そこにいろんなオカルトの
脅しだのこけおどしが絡んでいるというのが全体的な見取りのような気もする。
 霊感商法が不快なのは当然だが、たとえ自我境界を踏み越えて私性が不当に取り扱われてるように感じる人が居ると
しても、そんなことでほんとに亡くなって欲しくないと思う。というか、95年の時点で、そういうことに対する反省的
意識(デカルトなのか?)から始まるような系列がひとつ位あってもよかった。
(MKウルトラのような出来事は、別に陰謀でなくあるんだろうしカルトはそれで増強しないと神秘主義体験を
演出出来ないんだろうけれども、そういう可能性に言及するだけでも気が狂ってると思われるのもなんかねぇという
気がする)。
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9.11もキリスト教界とその他の世界観のコンフリクトであり、たぶんMTVとかを素で流して見ていてもそういう
表現は多いように思えるのだが、そんな中で仏教系カルトに個人情報を無尽蔵に使われる事はどうでもよすぎる気がする。マイナーな宗派性とメジャーな宗派性がちょうどひっくり返っているのだ。

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感覚が水平的にすーっと流れていく平面の析出。それが出来れば大抵の事はフォーメーション出来る筈なのだが、
そこを欠損させるための儀礼とテクネーに属しているグロテスクと愚行(殆ど、「人肉カプセル」とかと変わらない
気持ちの悪い感覚の専横を思い浮かべる)。
 無尽蔵に外国人を嫌悪する事はないにしろ、韓国系カルトはあるアスペクトで明らかにおかしい(食生活
と暴力的行動について。比喩の単調さもそうなのだが何となく発達に問題があるように思える)。それが全共闘と結託し、いつまでもメディアで空回りしているという「容態」
を思い浮かべる。(糸井重里にしろ、茂木さんにしろ、やっぱり文意が過度に汚い。商品世界について書く時
ベンヤミンから感じるのは、結局文意の汚さのとても希薄な感じのように思う。だからパサージュならパサージュ
という場所がくっきり解るような気がするのだが)。

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電磁波であれそれ以外のものであれ、精神状態に影響を残すオペレーション自体専横的に使われるべきでない
という立場だが(薬理も了解を得ない実験は行われるべきでないかと思う)、「知覚の扉」や「陶酔論」を
例にとって精神変容の内実だけを取り出すことは無意味でない気がする。にしてもいろんな事故や事件の遠因に
精神操作がある、というのが、もし思い込みでないとしたら、そういう出来事に対する形式的な抵抗の方法の
少なさも含めて、大変偏った時代と国に生きている気がする。
サリンの後遺症に苦しんでいる人の立場を考えても、結局とんでもない下らない事件だったのだし、似たような
ものは全部手口を即物的に書いてしまうというのが一番いいようにも思える。(95年にサリンを撒かれた時点で、
科学兵器やPCによるテロや人体実験を新興宗教が行ったら即破防法適用という風になっていれば、何だかよく
解らない集団ストーカーのオペレーションも回避されており、人も死なないですんだのではと思う)。
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現代美術の圧力団体とか新興宗教への依存や寄生について、もっとはっきりした事を書くべきなのかも知れない
というような事を思う(そういう下衆なポジショントークオタクみたいな乞食作家に付きまとわれているから
だが。「横尾忠則、鬼畜ですね」としかいい様がないお話をある美術家さんから聞いたが、古谷利裕がとても
ウザい。潰しが利かないと結局たかりで作品の体裁をつけないといけない見本のような人だと思う。茂木健一
郎と同じように、新興宗教絡みの利権で表に出た他人の形式の流用を、勝手に自分の作品として流通させている
だけであり、私がオーソライズすればそれでいいような事が沢山混じっている)。
 ミニマリスムみたいなものについてくっきりした言葉でフレームを作れず、オカルトや宗派にぶれ続けるタイプ
は何かしらおかしい。その裏には95年の事件の時と同じような、えげつない(下品で、アートならアートらしく
止揚することを目指しても既に手遅れみたいな)構図が張り付いている。
 全くそういうものと縁がないため余計に感じるのだが、薬物中毒が形式を獲得出来ないのと同じく、本来だったら
他人の盗用やら位置調整や心神喪失への拘泥がアートの問題になるべきではないのだ。横尾忠則の、オーギュスタン・
ルサージュにそっくりな気持ち悪い絵の事と、論旨が浮上しない批評の不毛を思う(そういう所に、自分の生活環境
の片鱗でも流用されていたら気分悪くなること必至かと思う)。
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少し前に机の前にカードを並べた写真を載せたら同じような構図を真似され、この手の自我が脆弱な人間はほんとに
日常生活にアクセスかけてくるのではないかと大変気持ちの悪い気分に。この界隈は下らないものの中毒とか周辺での自殺もそれが原因という事を知っているので、私は絶対に自分から関わらないのだが(もしそれで警察が動くのなら、この際ちゃんと
警察に売ろうかと思ってさえいる)。
 ストーカー被害者の方は、表現界隈の人間が「私からパクッたもので私とコミュニケーション取ろうとするな」という
ごく単純な感覚も解らない人達のゴミ捨て場なんだと認識しておいた方がいいのかも知れないと思う(まともな関係の
中だと、そういう事は少なくとも痛さを感じるような容態では起こりえない)。
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ドゥルーズラカン創価学会やその他仏教系カルトの混乱した独善性を「接木」(接続?)なんてあり得ないでしょ、
という視点があり、にも関わらず懐事情でそうなっている所が恐ろしく寒い。
そういうものはインターナルイメージが屑とか汚物なんだろうが、意識一般の内容物とあまりに遠い気がする。
・・・身内を吊るし上げて自殺に追い込んだり実験する分には仕方ない気がするが、何か普通の日常的な感覚を巻き添えに
しないで欲しいという気に。